第131話

 佑樹は走った。走って、走って、走って…。彼は心に厄介な感情が生じた時は、いつもそうしている。体育会系の彼らしい対処方法だった。


 走っているうちに、筋肉がより多くの酸素を必要とし、結果脳へ運ばれる酸素の量が減る。すると脳の活性が阻まれ余計な考えが頭から蒸発していく。体育会系とは言え、医学的な理屈にあった対処方法である。


 厄介な感情の出処はわかっていた。先輩である。では湧き出てくる感情とはどんなものなのか。言葉で言い表すことは難しいが、強いて一番近い表現は『切ない』であろう。本当の気持ちに無理やり蓋をしている気分だ。

 ちょっと待て、本当の気持ちってなんだ…。まだ男として幼い佑樹は、そう自問しても、自分が欲しているものが何なのかわからなかった。うっすらと先輩と一緒にいたいという気持ちがあることだけは感じていたが、理由もわからず、それを欲してはいけないと自分に言い聞かせている。


 大概は10キロも走れば、気分も切り替わるのだが、今回は事情が違った。今日でランニングを始めてから10日目だ。そして、疲れ果ててその日ランニングを終えても、また明日も走らなければならないだろうと自覚していた。


「おい、佑樹」


 肩で大きく息をしながら帰宅した佑樹に、タオルを放りながら父親が言った。


「お前、なんでまたそんなに走ってんだ。大学で野球やるつもりか?」

「なわけ…ハァ、ハァ…ないだろ…ハァ、ハァ…」

「明日のジョーから一転、若さのエネルギーを持て余してるってやつか…」

「ほっとけ!」

「まあ、変な方向に発散するよりはいいか」

「そういう人がいるから、オヤジの小説が金になるんだろ」

「イェス、そういう事」


 父親はニヤッと笑いながら指で金儲けのサインをつくる。


「ところで…じいちゃんは?」

「さっき往診の先生が来てくれたときは、目が覚ましてたが、今は寝てるんじゃないか」

「じいちゃんの水差しでも替えてくるか」


 佑樹は額を流れる汗をタオルで吹きながら、じいちゃんの寝ている離れに向かった。


「おい、佑樹」


 父親が、タオルで包まれた佑樹の背中に声をかける。


「じいちゃんと過ごす時間も…もう残り少ないようだ」


 父親の言葉に佑樹の動きが止まった。


「主治医の先生が…」

「そうか、わかったよ」


 佑樹は父親に最後まで言わせなかった。

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