第120話
それからミチエは石津家での不思議な居候暮らしが始まった。
婚約したとは言え、結婚もしていない若い男女を同じ部屋に寝かせるわけにはいかない。2階にはふた間あるが、襖一枚で区切られているだけ。まだ嫁になっていないよそ様の娘を預かる泰滋の父は、せめて寝泊りは近隣の知人の家にと考えるのも当然だ。
しかし、少しでも離れていたくない泰滋は、そんな父に『おとうさんは、息子が信じられへんのか。』と食ってかかる。結局父が折れて、2階のふた間をミチエと泰滋の寝室としてわけて使うことを許したのだが、当時の道徳観から言えば、進んでいるというべきか、非常識というべきか…、筆者はその言葉を思いつかない。
当のミチエは、『ストップ札』という切り札を持っているので、泰滋もうかつなことができないだろうと石津家の決定に従った。
石津家は、ミチエが居るからといって生活のリズムを崩すようなことはしなかった。父親は毎朝出勤。泰滋もいつも通り大学へ通い、家に残ったミチエは家にお義母さんの家事手伝いをする。お義父さんと泰滋が帰ってきたら、食卓を囲み、食事が終わったら後片付け。
体の弱いお義母さんは、正直キビキビと立ち働くミチエが来てくれて助かっていた。石津家の味付けの仕上げさえすれば、あとはミチエがほとんどやってくれる。忙しさに慣れているミチエとしても、日常の家事で体を動かしていたほうが気が楽だ。
そして、一日の終わりは銭湯。ミチエの実家とは異なり、長屋作りの石津の家は内風呂が無い。毎夜桶を持って、ふたりは歩いてすぐの銭湯に連れ立って行った。
「ミチエさん。風呂から上がる時に大声を出しますので、タイミングを合わせて銭湯から出てきてください」
「えっ、声を出すんですか?」
「ミチエさーん、でーるよーって…」
「なんか…みんなに分かっちゃって…恥ずかしいです」
「ほなら、口笛にします」
「どんな?」
「ぴーっぴぴー」
『でーるよー』の言葉をなぞっただけの音。口をすぼめて口笛を吹く泰滋の顔が滑稽で、ミチエがコロコロと笑い出す。
「ダメですか?」
「いえ…それでいいです」
「ミチエさんが先の場合は、ミチエさんが口笛吹くんですよ」
「えっ…」
「どうしたんです」
「私…口笛が吹けないんです」
「ほんまに?…ミチエさん、そんな箱入りのお嬢さんでしたっけ」
「意地悪…」
「ええです。自分が吹きますから、聞こえるまでは銭湯を出たらあかんですよ」
ふたりだけがわかる、初めてのサインが作り上げられた。
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