第119話

泰滋は視線を賀茂川からミチエに移した。


「そんな京都の家に体一つで飛び込んで来るなんて、どんな勇気を持っていたとしても難しいことだと思います。僕は自分の気持ちだけを先行させて、ミチエさんの気持ちや事情を大切にしていなかったような気がします。ごめんなさい」

「あら、ここで謝るなんて…婚約解消ですか?」


 いたずら顔で泰滋に問いかけるミチエ。


「いえ、せっかくミチエさんから頂いた承諾を、僕から解消するなんて絶対にしません」


 泰滋は慌てて答える。


「でも…ミチエさんにも拒否権がなければ不公平でしょう。そこで、布団の中でずうっと考えてたんですが…」


 泰滋はポケットから紙片を取り出すと、それをミチエに渡した。紙には『ストップ』と書いてあった。


「本当に結婚するまで、自分や京都が嫌になったら、訳も愛想も要りません。いつでもその『ストップ』という札を見せていただくだけで結構です。自分はすっぱりと諦めます」


 ミチエはその紙片を長々と眺めながら、あの文通時代の最初の頃を思い出した。そして、大切そうに上着のポケットにしまいこんだ。


「あっ…」


 そんなミチエを見て、泰滋が思わず声を出す。


「なんです?」

「あの…自分の筋書きだと…必要ないと言って…この場でその紙を破ってくれるのかと…」

「ご自分で言い出したくせに…甘いんじゃありません」


 ミチエは笑いながら立ち上がった。腰に敷いていたジャンパーを取り上げて叩くと、それを泰滋に渡す。


「さあ、帰りましょう。お義父さんも、お義母さんも、首を長くしてこのお豆腐を待ってらっしゃるだろうから」


 戸惑い顔の泰滋を置いて、ミチエは家に向かって楽しそうに歩きだした。

 自分の意思を尊重してくれる泰滋の心遣いが、ミチエの心をすこし安らかにしてくれたのだ。

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