第121話

 男女に分かれてそれぞれの脱衣所に入り、泰滋の口笛でまた銭湯の玄関先で一緒になった。


 帰りは、アイスキャンディーを舐めながら、ちょっと遠回りに賀茂川の川端の道を帰る。川辺を渡る涼しい風に、ふたりはベンチに座ってしばし涼を取った。


「口笛が吹けなかったら、楽しくないでしょう」

「いや、べつに…」

「僕が教えてあげましょう」

「別に…吹けなくてもいいですから…」

「そんな、遠慮しないでいいです。ほら、こういうふうに口をすぼめて…そして、一気に息を吐くのです」


 泰滋はぴーっと口笛を鳴らした。


「やってみてください」


 ミチエは言われた通り、口をすぼめて息を吐くが、なかなか音にならない。


「だから、もっと口を小さく…」


 ミチエの口が小さくなりように、泰滋がミチエの唇を、親指と人差し指ではさんだ。真剣に音を出そうと頑張るミチエ。ミチエの息が泰滋の唇をなぜる。

 柔らかくしっとりとしたミチエの唇の感触が指に伝わってくる。その唇を見詰めているうちに、泰滋の心に愛しさが溢れてきた。泰滋は何かにはじかれたように、唇を挟む指を外した。


「あれ…どうしたんです?」

「やっぱり…女性が口笛なんて…下品ですよね。吹けなくてもいいです」


 いきなりそっぽを向いた泰滋にキョトンとして彼を見つめるミチエ。純真無垢な19才のミチエは、自分が発している女性としてのオーラに全く気付いていないようだ。


 22才の血気盛んな青年が、風呂上がりの19才の乙女を、洗い髪が香るところに置きながら、本当に結婚するまで自分を抑えきるなんて芸当ができるものなのだろうか。男にとっては残酷な話だ。

 しかし、彼はそれをやらなくてはならないと決意していた。決して急いではいけない。理性とか道徳とかの次元ではなく、それで彼女の心を失うようなことがあったら、元も子もないと考えていたのだ。


 まだまだ男尊女卑の風潮が残る時代。ともすれば妻を部屋の家具のように取り扱う男が多い中で、女性であるミチエを一人の人間として大切に扱う泰滋のこの考え方は、新島襄の教えが身についている同志社大学の学生であるが故であろうか。


「さあ、帰りましょう」


 泰滋がベンチを立った。あとに続くミチエ。


「しゅー…しゅー…」

「だから、口笛は吹けんでもええと言うとるやないですか」

「だって…」


 泰滋の苦闘も知らず、みちえは艶やかに潤う唇を突き出して、無邪気に口笛の練習を続けていた。

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