第111話

「えっ、そんな…でしたら、厚かましいですがサインをいただけませんか?」

『何か買ったらレシートにサインは客として当たり前でしょう。本当に指を折られたいのね』

「ちがうんです…お客さまはギターの演奏家でいらっしゃいますよね」


 汀怜奈は頷いた。


「僕は…お客さまがとても高名なギターの演奏家でいらっしゃるということを、他のスタッフから聞きました。失礼ながら、自分は勉強不足でお客様がどんな演奏家でいらっしゃるかわからないのですが…」


 そりゃそうだ、知っていれば佑樹の家に上がってギターを教える羽目にはなっていない。


「僕の先輩が…とてもギターが上手で、しかもよくギターのこと知ってるし…お客様のサインをお土産にできたら、きっと喜ぶと思って…」


 汀怜奈は佑樹の手を離すと、母親に目配せして色紙をお願いした。白い色紙に美しく繊細な線でサインを仕上げると、またメモを取った。


『差し上げる方のお名前は?』

「なまえ?そう言えば聞いたことないな…とりあえず先輩へってお願いできますか」


 汀怜奈にしても、確かにあれだけ佑樹の家に出入りしているのに、誰からも名前を聞かれた覚えがない。考えてみれば、佑樹の家族は本当にいい加減というか、ゆるいというか…。汀怜奈は色紙に『先輩へ』と書き記した。


『この方は、どんな方なのかしら?』

「どうって…強くて頼りがいもあるんですが、プライドが高くて、おこりんぼで、時々手に負えない時があります」


 ゲストの目つきが変わったので、佑樹は言葉を止めた。汀怜奈はメモをとる。


『つまり、面倒なやつということですね』

「いえ、それでいて放っておけないような、どんなことをしても、支えてあげなきゃいけないって思えるような…」


 汀怜奈は胸に暖かい空気が吹き込まれるような思いがした。佑樹を騙して申し訳ないとも考えたが、この機会に思い切って聞いてみようと言う気になった。


『その方のこと好きですか?』

「えーっ、先輩は男だから、恋愛みたいに好きとかそんなことはありませんよ」


 ちょっとがっかり。


「でも、誤解を恐れず言うなら、家族以上に一緒にいたいと思える人であることは間違いありません」


 汀怜奈の胸がキュンと鳴った。きっと耳たぶが真っ赤になっているはずだ。あらためてウィッグを着けていてよかった。


「お客様、ありがとうございます。先輩も喜ぶと思います」


 汀怜奈の手から色紙を奪うように受け取ると、佑樹は何度もお辞儀をしながら部屋を出て行った。


「フランスから帰国以来、いろいろしでかす汀怜奈さんですけど、今度は筆談とは…」


 あきれる母親。しかしその言葉も汀怜奈の耳には入っていないようだった。


『次のレッスンではあの色紙を私に渡すつもりかしら…。どんな顔して受け取ったらいいの』


 今度は、赤くなった耳たぶを隠すウィッグは無いのだ。

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