第110話

 佑樹が再びドアチャイムを鳴らした。


 今度は、汀怜奈は部屋のソファーでウィッグをつけて動こうともしない。母親がドアを開けた。


「さっきはごめんなさいね。娘がいきなりドアを閉めてしまったから…」

「いえ…私のほうが不器用でご迷惑を…」


 注意深くワゴンを部屋の中に入れる佑樹。ワゴンを押す手に、絆創膏が2重に貼られていたのを、汀怜奈は見逃さなかった。先ほどの彼女の奇行で、佑樹は手を挟んでしまったのだろうか。ライムの入ったグラスとペリエのボトルをトレーに載せて運ぼうとすると、母親が言った。


「ああ、そのままワゴンに置いていただいてかまわないわ」

「はい。それでは、サインを…」


 佑樹は言葉を止めた。見るとソファーのゲストが、指で彼を読んでいる。どうもここまで運んでこいと言っているようだ。


 確かこのゲストだったよな、さっきドアを開けたのは…。なんかだいぶ印象が違う。こんな髪の毛長かっただろうか。しかし、本当にわがままなゲストだ。いきなりドア閉めたり、偉そうに指で自分を呼んだり…。


 佑樹がトレーを運び、ソファーの前のテーブルにグラスとボトルを置くと、再び汀怜奈の奇行が繰り出された。今度はいきなり絆創膏が貼ってある佑樹の手を取ったのだ。驚く佑樹もゲストの手を払うわけにもいかず、成すがままにゲストの奇行を受け入れざるを得ない。ゲストはじっと絆創膏が貼ってある手を見つめていた。


『それにしても…なんて綺麗な人なんだろう。し、しかもこの優雅で繊細な香りはなんだ』


 佑樹が思っていることは分からずとも、汀怜奈は彼が自分を見つめていることはわかっていた。ウィッグを着けて取材撮影用にメイクを施した今の自分の顔なら、佑樹に気づかれることはないと自信はあった。

 しかし耳のいい佑樹だから声を出せば気づかれる。汀怜奈は、ルームに常備しているメモ用紙を取ると言葉を書いた。


『痛かったでしょう。本当にごめんなさい』


 佑樹はメモを読んだ。なんだ、案外優しい人なんだ。


「いえ…大丈夫です。大したことありません。気になさらないでください」

『お詫びに何をしたらよろしいかしら?』

「いえ、結構です。大丈夫ですから…」

『それでは、私の気がすまないのです』


 佑樹も困ってしまった。美しいホテルのゲストに手を握られてそう言われても、ボーイごときが何を要求できようか。言葉を失う佑樹。汀怜奈も少しじれてきた。


『早く言わないと、今度はこの指を折りますわよ』

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