第108話
忙しい合間をぬって、なんとか佑樹とのギターレッスンを3回ほど持つことができたが、本来の目的である佑樹のじいちゃんの正体を暴き、その口からギターの『声』の秘密を聞くというミッションは、いっこうに進まないでいた。
「それにしても…いくら教えても少しも上手くならないですわね」
小さく独り言を言いながら、自然と汀怜奈の口元に笑が浮かぶ。言葉は耳に届かなかったが、母親はその小さな笑を見逃さなかった。
「まさか、汀怜奈さん。好きな人ができて、デートされているなんてことは…」
「そんなこと…あるわけないじゃないですか」
必死に母親の質問をかわそうとする汀怜奈。
「確かに、男みたいな格好して外出して…デートするような服装ではないと、みんな言ってたけど」
「そんなことより、お母さま。東京スカイツリーがあんなに近く見えるなんて不思議。こちらにいらしてご覧になったらいかがです」
首をひねりながらも、母親は娘の傍らで東京スカイツリーを眺めた。汀怜奈は母親の腕を取りながら、東京スカイツリーを眺めた。しばらくすると、また心の中に佑樹の風船が膨らんでくる。
佑樹に演奏者としてのセンスなどないことは、汀怜奈は最初から見抜いていた。しかし佑樹に言わせれば教え方が下手なのだそうだ。プライドの高い汀怜奈だ。そんな言われ方したら腹も立とうと思うのだが、どうしてもその場でレッスンを打ち切って席を立つ気にはなれないでいた。
確かにおじいちゃんに対するミッションもあるのだが、いつの間にか二人のレッスンは、ギターが上手くなるという目的はどこへやら。どちらかといえば、ギターをはさんでの楽しいおしゃべりの時間という色合いが濃くなっていたのだ。そのひと時が汀怜奈には、心地よかった。
今までギターをはさんで対峙していた相手は、師匠でありそして観客であった。彼らを前に切れるような緊張感でギターを抱えながら音楽に立ち向かっていた。それがどうだ。ギターを弾きながらしゃべり、喋りながらもギターを弾く。こんな人とギターの関係は、汀怜奈にとってはまったく初めての経験だった。
しかし、これでいいのだろうか。自分は音楽芸術の高みへ進まなければならない。それは自分の宿命のような気がしていた。そのためには、波間に浮かぶような心地よさに揺られて、貴重な時間を費やしている暇はない。佑樹のおじいちゃんからのアプローチが難しいなら、早く見切りをつけて新しいアプローチを見つけるべきではないか。汀怜奈は芸術家として、少なからぬ焦燥感を抱いていたのも事実だった。
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