第106話
「ええ、それは音量なのです。今でこそ電気処理で大きな音が出せますが、当時はそのようなものはありませんでしたから、音量がヴァイオリンとかチェロに遠く及ばなかったのです。3メートルも離れればもう音が聞こえにくくなってしまいますの…です」
「そうなんだ…。ところで先輩、弦張り終わりましたよ」
汀怜奈がチェックする。弦にねじれもなく綺麗に張れているようだ。次は、バッグからAの音叉を取り出し、チューニングを教える。佑樹は5弦を起点にチューニングを始めた。汀怜奈はチューニングの音にも構わず話を続ける。
「だからギターは交響楽の楽器にはなりえなかった。他の楽器の音に負けてギターの音など埋没してしまいますから」
「ギターって、昔はとってもひ弱な楽器だったんですね」
「そうです。ギターは、楽器を囲むほぼ2メーターの範囲で音楽を聞かせる楽器というのが本来の姿だったんです」
「それでは多くの人に聞かせられませんよ」
「ええ、ギターを囲むほぼ2メーターの距離と言ったらそこに居るのは、演奏者自身か、演奏者の大切な人ぐらいなもんでしょうから」
「大切な人って…」
「例えば、家族とか、恋人とかですよ」
「そうなると、音楽を聴かせるというよりは、なんか…語るって感じですね」
「そうです。ですから、彼女をモノにしょうとするのに、ギターを選んだのは、案外正しい選択だったのかもしれませんね」
「モノにするなんて…、やめてくださいよ。人ギキの悪い」
「そうでしょ?違うのですか?私は間違ったこと言ってますか?」
「先輩…また怒るんだから…」
佑樹は汀怜奈の皮肉の矛先をかわそうと話題の方向を変えた。
「でも今の自分みたいに恋人がいない場合は、ギターを弾くとどうなっちゃうんですかね」
「そうですね…当然佑樹さんがギターを弾けば、佑樹さん自身に聞かせることになりますね」
「ああだからか、それでじいちゃんが言っていたことがわかった」
汀怜奈は、会話にじいちゃんが出てきたことに色めきだった。
「おじいさまは…なんと?」
「高校野球が終わって、何もヤル気になれずダラダラしていた時にギターを勧めてくれたんですが…。『人に聞かせる楽器もいいけど、自分自身で自分に音楽を聞かせるギターってのも、いいと思わないか。』って」
汀怜奈は新ためて老人のギターに関する造詣の深さを知った。やはりあのおじいさまはただものじゃない。
「先輩、チューニング終わりました」
汀怜奈はギターを受取って、チューニングをチェックした。張りたての弦では、チューニングが狂いやすいのだが、音は正確に調整されていた。さすが野菜のおしゃべりを聞き分ける佑樹の耳はチューニングも正確だ。
「しかも見てくださいよ、先輩!」
佑樹が嬉しそうにギターのヘッドを指差して大声を出した。
「ほら、みんな同じ方向を向いてら」
彼の指差すところを見ると、ギターのペグのヘッドが、みんな同じ方向に揃っている。
『うそ…偶然でしょ?』
佑樹がギターをいじると、何か不思議なことが起きる。汀怜奈はそんな、胸騒ぎというか、期待感というか、不可解な気持ちで佑樹を見つめた。
「あの…」
見ると佑樹の父が部屋の入口に立っていた。
「なんだよ。おやじ。なんか用?」
突然現れた父に不満そうな佑樹。
「いや、コーヒーでもどうかな…なんて」
父の手にあるお盆には缶コーヒーとお皿の上にたっぷりのカントリーマムがもられている。
「そんなこと頼んでないから。欲しい時は自分で取りに行くから」
「そうか…なら、下に戻るが…なんか楽しそうだな…なんて」
佑樹の剣幕に押されモジモジとつぶやく父親。
「どうぞはいってください。ご一緒にコーヒーブレイクしましょう。弦も張り替えたし、佑樹のチューニングしたギターで、試しに一曲演奏してみますから」
佑樹の不満顔にも構わず、汀怜奈は笑いながら父親を迎え入れた。
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