第102話

 ミチエが家を出た時ちらついていた雪は、やがて本降りとなり、街の屋根や道を白く覆う。運が悪いことに、その日は関東史上にも記録される大雪の日となった。


 泰滋の万年筆を握りしめて、電車に乗っていたミチエだが、車窓が次第に雪に塞がれていくと、家を出た時の勇気もどこへやら、だんだん心細くなっていく。通常なら、総武線から山手線に乗り継ぎ、目黒で東急目蒲線に乗り換え多摩川へと、2時間程度の道のりなのだが、雪のために大幅に遅れて2時間経ってやっと、秋葉原である。


 山手線に乗り換えたはいいが、ここも停止と発車を繰り返して、1時間以上もかけて目黒にようやく到着した。ミチエはしばらく駅のベンチで休むことにした。今まで、締め切った車内で蒸し暑い人熱れに揉まれて、ミチエも気分が悪くなっていたのだ。バスケットで鍛えたミチエの心身でも、今日の雪は体に堪える。無謀にも、こんな日に家を出てきてしまった自分に後悔の念が押しよせる。


 雪はまだ降り続いていた。これから先へ行けるのか、うまく行けたとして果たして帰れるのか。ミチエは全く予測ができない。ヘタをすれば、駅での野宿を余儀なくされるかもしれない。いずれにしろ、か弱い19歳の乙女には、危険がいっぱいだ。


 泰滋は、今日塩山から帰ってくると言っていたが、こんな雪の日に戻れるわけがない。もう万年筆を返すなんてあとにして、このまま家に帰った方が良い。19歳の乙女として当然のあるべき判断だが、引き返そうとしても体が言うことを聞かなかった。


 一度目指したことは、何が何でもやり遂げろ。

 悲しいかな、インターハイまで行った体育会系のバスケ女子は、いつまでたってもコーチの教えを自分の身から拭えない。ここまで来ると、万年筆を届けて泰滋に会えるかもしれないとか、手紙をまた書いてもらいたいとか、そんなロマンチックな期待はとうに頭から消えていて、ただやり始めたことを途中で断念することが悔しかった。


 やおらベンチから腰を上げると、ミチエは果敢にも目蒲線の改札に歩みを進めた。蒲田行きの電車はまさにいま発車しようとしている。改札に近い、最後尾の車両に慌てて駆け込んだものの、同じように駆け込んだ多くの人の人熱れに、気分が悪くなる。より空間のある車両を求めて、ミチエは進行方向の車両に歩みを進めた。

 車両と車両をつなぐ連結部分のドアに、ようやくたどり着いたミチエであるが、気分の悪さももう限界に達していた。相変わらず電車は、停止と発車を繰り返して、遅々として進まない。意識も朦朧としてきた。

 真夏のスパルタ練習に耐え抜けたのも、チームメイトが居たからこそなのだろう。たったひとりでは、自分はこんなにもか弱いものなのか。ミチエの膝の力が抜ける瞬間、彼女を抱きかかえるものがいた。


「ミチエさん!なんで、こんなところに居はるんですか?」


 ミチエが、朦朧とした視線で声の主を見ると、それは泰滋であった。


 こんな映画のような話しは、後日誰に話しても、決して信じてもらえなかったという。しかし、信じもらえないならそれでもいい。この時ミチエは薄れる意識の中で、この男が自分の『運命の男』であることを確信したのは事実なのだから。

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