第101話
泰滋は、母の実家の庭先で、山梨の山並みの上に浮かんでいる月を眺めていた。
こうしてひとりになって、顔に山の冷気を当てていると、今自分の心が何を求めているのかがはっきりわかる。それと同時に、自分が求めていることを、妨げる可能性があるものが何かも、はっきりと分かるのだ。
彼にとって、父親と京都(ふるさと)は同義語だった。いずれも手ごわい相手だ。かつて自分の初恋もボロ切れのように捨てざるを得なかったのは、彼らに屈した自分の弱さではなかったか。あの頃の自分に比べ、今の自分に強さが増していると言えるのだろうか。
「泰滋ちゃん。部屋に戻らんかい。温かいほうとうをつくったで。山の夜は冷えるから、体に毒じゃ」
彼に声をかけたのは、伯母である。
「はい」
泰滋は素直に答えて居間に戻ると、進められるままにほうとうを頬張った。
「ところで、泰滋ちゃん。なんか元気ないようじゃが…」
「そうですか?」
「悩みでもあるのかの?」
「嫌だなおばちゃん。悩みなんかありませんよ」
「そうかい、それならええんじゃが」
「ただ、急に考えなきゃならないことが増えちゃって…」
「それは悩んでると同じじゃろ」
「そうでしょうか…でもどうしようかと迷っているわけではないんですよ。自分のしたいことは、はっきりしているんです。ただ、それをいつ言い出すべきなのかがわからないんです」
「それを迷ってるというんだがや」
「はは、確かにそうですね」
泰滋は笑いながら、ほうとうの熱い味噌仕立ての汁をすすった。そんな彼をしばらく眺めていた伯母であったが、厚手のどてらを羽織る背を一層丸めながらつぶやく。
「ああ、本当に冷えてきたのぅ。この調子だと明日は雪じゃ」
「そうですか」
「この時期が一番冷え込むのだから仕方がないが、山の暮らしをしてると、人はただ耐えてじっと春を待つことだけを覚えてしまう。…あら、泰滋ちゃん、まだほうとうはあるで、もう一杯どうじゃ?」
「ああ、ならお椀に半分だけください」
伯母は、泰滋から空のお椀を受け取ると、ほうとうを鍋からすくった。
「春は必ずやってくるから、待つのはええんじゃが…。ほら、こんくらいでええか?」
泰滋は礼をいいながら伯母からお椀を受け取った。
「他のことは待ってて、本当にええんかったかと、思う時がある」
伯母の言葉を聞いて泰滋の手が一瞬止まった。しばらく、椀の中の野菜を無言で眺めていた彼だったが、やおら箸を動かし始めると、2杯目のほうとうを勢いよく口にかきこみ、最後の一滴までお椀の汁を飲み込んだ。
「ああ、美味しかった。ありがとう伯母ちゃん。ところで…」
泰滋は空のお椀を伯母に差し出すと、満足そうな笑顔で言った。
「電報局は、確か駅のそばにあったよね」
泰滋は何かを決意したようだった。
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