第100話

 翌日の夜、ミチエは庭の軒先から家屋の屋根の上に浮かぶ月を眺めていた。


 月は満月なのに、彼女の胸は三日月のように欠けた空虚感に苛まれていた。言い尽くされた表現ではあるが、胸に大きな穴があいたようだ。こんな感じは、以前は感じたことがなかった。


 ミチエにしてみれば、長兄とともに泰滋を千葉駅に送っていき、彼の背中を見送った時からこの空虚感は続いている。泰滋が改札の奥に消えるのを見ながら、5日前に初めて会ったばかりの彼なのに、長年過ごした家族と離別するような気分になるのはなぜなのか、合点が行かなかった。


「おう、お前ここにいたのか?」


 見ると長兄が勝手口に立っていた。ミチエは別に返事もせずまた月に視線を戻した。

 仕方なく長兄は、サンダルをつっかけると、大きな体を揺すりながらのっそりとミチエの横に立った。


「お前、こんなところで何やってんだ?」

「別に…」


 長兄は、しばらく月に照らされているミチエの横顔を見ていたが、くわえていたタバコに火をつける。


「お前に…月を眺めて感傷にひたるなんて乙女心があったなんて意外だな」

「うるさいわね。何しようが私の勝手でしょ」

「なんか…不機嫌そうだな」

「私に用がないならさっさとあっち行ってよ」

「用があるから、お前を探したんだろう」

「だから、何?」

「実はな、部屋でこれを見つけてな…俺のじゃないから、どうも、泰滋くんが忘れていったらしい」


 長兄の手にしているものを見ると、万年筆だった。柄が木製でだいぶ使い込まれている。これは、1年以上にもわたり彼女への手紙を書き綴った万年筆に違いないとミチエは直感した。これが彼の手元から失われてしまったら、自分あての手紙を書く事ができない。


「お前、彼の住所知ってるんだろう。送り返して…」


 長兄の言葉が完結する前に、ミチエは彼の手から万年筆を奪っていた。

 これがなければ、もう二度と自分あての手紙は届かないのではないか。そんな恐怖をミチエは感じた。何が何でも彼が京都に帰ってしまう前に、これを返さなければ。

 たしか、彼の手紙の中に、多摩川の親戚の家の住所が書いてあったような気がする。彼が塩山から帰っているかどうかわからないが、彼が京都に帰る前にこの万年筆を届けよう。奇妙な強迫観念に駆られて、ミチエは、多摩川の家の住所を確認するために一目散に自分の部屋に駆け込んだ。


 彼に会いたいのなら、そんな理由がなくとも素直に会いに行けばいい。しかし、この時代では、そんな素直な気持ちを表すことが不健全とされていた。だから、彼が忘れた万年筆が、ミチエの気持ちを救ったと言えないこともなかった。

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