第90話

「佑樹さん、そう思いませんか?」


 汀怜奈はちょっとした感動に浸って、自分の言葉への同意を佑樹に求めた。しかし佑樹の心は、どうも彼女とは別なところにあったようだ。彼の視線の先をたぐると、それはアーケードの反対側にいる女子高生の一群に注がれていた。


 佑樹の顔をあらためて見ると、あらゆる部分が緩んでいた。鼻の下が伸びるとはよく言ったものだ。今の佑樹の顔がまさにその顔で、あの女子高生の一群の中に、佑樹の気になる女の子がいるということは誰の目にも明らかだ。

 すると佑樹は何かを思いついたように、突然買い物袋を地面に放り投げ、汀怜奈の前で手を合わせて両膝をついた。


「先輩…お願いがあります」

「な、なんですか…急に…」

「自分に、ギターを教えてもらえませんか?」


 やはり佑樹は汀怜奈の話を全く聞いていなかった。そんな相手の非礼をプライドの高い彼女が、許すはずもない。汀怜奈は無言で歩き去っていく。

 佑樹が買い物袋を抱えて慌てて追いかけて生きた。


「先輩、お願いしますよ」


 背後からの佑樹のお願いに歩調も緩めず汀怜奈が冷たく言葉を返す。


「どうして今、急にギターなのですか?」

「なんか…先輩みたいに弾けたらいいなって思えて…」

「どうしてですの?」

「どうしてって…先輩みたいにギターを上手くなってですね…、いろいろな人に自分の演奏を聞かせてあげたい…」

「聞かせてどうするのですか?」

「いや…だから…幸せにしてあげたい…」


 佑樹の答えに汀怜奈は首を振ってため息をつく。


「よくもまあ、大業に人類愛をネタにして大嘘を言いますよね。佑樹さんはただ、さっきの女子高生たちの中にいたひとりに、よく思われたいだけでしょう」

「ぐっ…」


 佑樹は、汀怜奈に言い当てられて次の言葉が出ない。


「つまり…女の子をモノにしたいから、ギターを上手になりたいってことですね」

「モノにしたいって…それほど不純じゃないですけど、まあ意味的には近いかも…」

「もちろん、お断りします」

「先輩、そんな冷たいこと言わないで…」


 足早に歩き去る汀怜奈を、野菜を揺らしながら佑樹は追いすがる。


「ねえ先輩、お願いだから可愛い後輩の恋を応援してくださいよ」


 可愛い佑樹の願いといえども、汀怜奈はまったく相手にしなかった。女の子を口説くためにギターを弾くという佑樹の動機は、普通の男子高校生の動機として理解はできる。

 しかし、世界の一流ギタリスタの仲間入りをしている汀怜奈が、なんでそれに関与しなければならないのだ。そんなことに自分の技術を使ったら、自分にギター演奏の才と高い芸術的感性を与えてくださった神様に怒られてしまう。


 汀怜奈はすがる佑樹に構うことなく、顎をツンと上げてあゆみを早めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る