第89話

 汀怜奈が、佑樹の前に回って彼の歩みを止めた。


「わたしには、おとうさまの気持ちがなんとなくわかるんですが…」

「何がわかるんです?」

「おとうさまはおじいさまと残された時間を、少しでも長く一緒にいたいから…自分の生活をお変えになったんじゃないですか」


 確かに表現の方法が不器用で、外からは意味不明に思われるかもしれないが、汀怜奈は佑樹の父の突飛な行動には家族愛が隠れていると感じていた。


 彼女はなぜかスペインの偉大なギタリスタ『ナルシソ・イエペス』氏を想った。イエペス氏は1952年に、パリのカフェで映画監督のルネ・クレマンと偶然知り合い、映画史上屈指の名作となるあの『禁じられた遊び』の音楽担当を依頼される。当時24歳のイエペスは映画の音楽の編曲・構成、演奏を一本のギターだけで行った。そして、その映画が公開されると、メインテーマ曲「愛のロマンス」が大ヒットし、彼は世界的に有名なギタリスタとなった。

 世界的に活躍した彼も、1990年頃に、悪性リンパ腫に冒されている事が発覚し、医師から演奏活動の中止を忠告されたが、ひるむことなくその後も演奏活動を続け、1996年3月にサンタンデール音楽祭に出演したのが最後のステージとなり、1997年5月3日に69歳で死去した。


 「芸術は神のほほえみである」との信念で年間120回にもおよぶ演奏会を、30年近く世界各地で展開したイエペス。彼が紡ぎ出す弦の音には、常に『家族愛』の香りが漂っていると汀怜奈は感じていた。


 汀怜奈は無性にギターが弾きたくなった。ギタリスタとしてのインスピレーションは、こんな平凡な暮らしの中にも存在しているのだ。

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