第73話
ミチエは、泰滋との待ち合わせ場所に向っていた。なぜか気がせいて早歩きになる。
「何をそんなに急いでるんだ。もっとゆっくり歩けよ」
後ろからついて来る長兄が文句を言った。長兄の同行は気に入らなかったが、母親の言付けだから仕方が無い。
『長年の文通相手と言え、初めて会う男性なのだから、うら若き乙女をひとりで行かせるわけにはいかない。身体の大きい長兄に付き添わせ、風体妖しい男だったらすぐに連れて帰れ』
との母の指示である。
ものぐさな長兄は普通であれば付き添いなどまっぴらごめんだと断るところだが、母の言付けを断らなかったのにはわけがある。適当にミチエの文通相手をあしらったら、ミチエをひとりで帰し、自分は後楽園の場外馬券売り場へ行こうと心に決めていた。長兄は大の競馬ファンなのである。
待ち合わせ場所は、東京ステーションホテル。このホテルは東京駅開業翌年の大正4(1915)年にオープン。ホテルの窓から発着する列車を一望することができ、戦前、戦後を通じて川端康成や内田百間(ひゃっけん)といった多くの文豪や、財界人などに愛された高級ホテルである。後年、改装前の209号室に滞在していた作家、松本清張がホームを行き交う電車を眺めるうちに代表作「点と線」のトリックを思いついたエピソードは有名だ。
しかし、東京ステーションホテルで待ち合わせと言っても、残念ながらふたりの待ち合わせ場所はホテルの入口。所詮学生の泰滋とミチエだから、こんな高級ホテルの中の施設を使えるわけがない。
長兄の懸念通り、ミチエは時間より早く着いてしまう。入口のドアボーイが、胡散臭そうにふたりを見ている。そんな視線を気にした長兄はぶつぶつ文句を言いながら、タバコを吸いに駅の入口の方へ移動してしまった。しかし、ミチエは毅然として動こうとしなかった。泰滋が早めに着いてすれ違ってしまったらと考えると、心配でそこを動くわけにはいかなかった。
泰滋は、東海道本線の夜行特急でやってくる。1950年、今年の1月に改名された特急『つばめ』であれば、大阪―東京間をわずか9時間で結べるのだが、いくら同志社のボンボンの泰滋と言えども学生の身分では使いづらい。
大阪を午後6時頃に出発、15時間をかけて東京駅へ。到着は、午前9時になる予定。そんな長旅に疲れているにもかかわらす、多摩川の親戚の家に行く前に、着いた当日にミチエに会いたいと言う。上京の目的は、親戚に会うことなのか、それとも自分に会うことなのか、ミチエには計り知れなかった。
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