第68話

 そんなことより、重要なことは橋本ギターとの出会いだ。


 探し求めていたギターが、よりによってずぶの素人の高校生の手にあるとは…。なんとか、あのギターを手にして、演奏してみたいものだ。その為には…。


 汀怜奈は鏡の前で、短く切った自分の髪を梳きながら、しばらく男でいなければならない必要性を感じていた。女として、佑樹の前に現れたら大変なスキャンダルになる。このまま男で通して、汀怜奈だと誰にも知られることなく、なんとかあのギターを手に入れるのだ。


 汀怜奈は、自分の乳房を両掌で覆ってみた。小ぶりだが形のよい柔らかな乳房。なのに、なんで佑樹さんは自分が女であることに気づかないのだろう。酔って動けぬ汀怜奈を負ぶって家に戻る時に、背中に当たったろうに。抱き合って寝て、自分のしなやかな身体に触れただろうに。それでも『スリーパー・ホールで寝るなんて、本当に格闘技好きなんですね』とは…。逆に自分に女としての何かが欠落しているのだろうか。


 模索があらぬ方向に行き始めた汀怜奈は、首を振って慌てて考えを立て直す。

 『ヴォイス』の正体を見極めるためには、橋本ギターがどうしても必要だ。巷からは美女の天才ギタリスタと言われている自分だが、あのギターを手にするまでは、女を捨てても悔いはなかった。

 バスルームを出ると、リビングングルームで母親が心配顔で待っていた。


「汀怜奈。いったい何があったか説明して頂戴」

「お母様。先程タクシーに料金を払って頂きましたよね」

「えっ…、確かに払いましたけど…」

「領収書をいただけますか、また外に出なければならない用事がございまして」


 母親にどんなに問いただされても、汀怜奈はそれ以上喋ることなく、口元は決意の一文字で、固く閉じられた。

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