第42話

 おばあちゃんが汀怜奈を導いていったのは、住宅街の裏にある小さな空き地だった。


「ここにギター工房があったのでごさいますか?」


 汀怜奈の問いに、おばちゃんはゆっくりとうなずく。

 雑草が生い茂り、荒れ放題に荒れたその空地には、工房を想わせる跡などひとかけらもない。途方に暮れている汀怜奈の手を引いて、おばあちゃんは空地の奥へと彼女を導く。


 雑草を掻きわけて進むと、おばあちゃんが立ち止まり、地面を指差す。そこには木造のアーチのような造作物が横たわっていた。当然のごとく木は朽ちていて、今にもぼろぼろに崩れそうだ。その形から2本の柱を冠木(かぶき)でつなぎ屋根をのせた、木戸の門であることが想像できる。当時はこの工房の立派な木戸門として、入口の役目を果たしていたのだろう。


 汀怜奈は、その造作物に近づいて細部を調べた。柱にあたる部分に『マルイ楽器製造』という文字が見える。確かにこの場所が工房だったのだ。さらに観察を進めると、汀怜奈は木戸門の冠木に当たる部分に、全体とは異質な木材で出来た板が付いていることに気づいた。その板だけなぜか当時の形を残している。

 汀怜奈はその板に触れてみた。


「この板だけ、ハカランダですわ…」


 ハカランダ(Jacaranda)別名ブラジリアンローズウッド。ブラジルのバイア州周辺で生産される木材だ。心材と辺材の境界がはっきりしており、心材は褐色から赤褐色。木目に沿って黒い縞を有し、鮮やかな木質感が特徴である。非常に重硬な材で粘りがあって加工は難しい。乾燥は困難だか十分乾燥すると狂わない。バラの花のような芳香があるのでローズウッドの名が付き、虫害や腐朽性に優れる。


 材木商でもない汀怜奈がなぜこんなことが解るのかと言えば、この木材は古くから高級な家具や屋内装飾材に使われる他、楽器材、特にギターの最高級材とされていたのだ。世界的な銘木で希少性が高く、現在ワシントン条約で絶滅危惧種に指定され、新たな伐採が禁止されるとともに、この木材の輸出入も禁止になっている。


 この板をさらによく見ると文字が書いてあるようだ。汀怜奈は、もしかしたら、この板には『御魂声』につながる重要なヒントが書かれているのではないかと直感した。墨で書かれていてほとんどが消えかかっているが、汀怜奈はなんとか判読しようと試みた。


『御魂声…染みわたる…』


 かすれた文字の中から読み取れるのはここまでだ。そこから先は木片が裂けていて判読できない。たしかに、ここで心に響く『声』の出る楽器を作っていたのは間違いない。しかし…。


「だから…、何なんでございますか?」


 ここへ来ても『ヴォイス』と出会うことでのできない汀怜奈は、胸がかきむしられる様な焦燥感に苛まれた。


 おばあちゃんと共に家に戻った汀怜奈は、そこで作ったギターがどうなったかを家の人々にも聞いたが、みな知らないと首を振るだけである。残念ではあるが、『御魂声』を求める汀怜奈の旅もここで終わらざるを得なかった。


 主婦とおばあちゃんに深く礼を言って辞した汀怜奈。夕日に照らされたその姿は、プライドが高く毅然とした姿勢を崩さない彼女には、似つかわしくない影を路面に落としている。しかしいつものように、頭を上げ、胸を張って歩く気にはなれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る