第32話

「聞きようによっては、薄気味悪い話しですね…」


 もともと声楽家の母も、その意味が解らず眉間にしわを寄せて話しに加わる。


「ロドリーゴさんを目の前にしていたとはいえ、相手はスペイン語です。フランス語に通訳された翻訳語では深い理解に至りません。しかも、ご体調がすぐれない中、理解できるまで質問攻めにしてご迷惑をお掛けするわけにもいきませんでしたし…」


 顔を曇らせる汀怜奈を、隣に座る母親が優しく手握って励ました。


「お相手は汀怜奈の5倍近くも生きていらっしゃる方でしょ。若い汀怜奈が理解できないのもあたりまえじゃない」

「ですが…」


 汀怜奈の言葉を遮って師匠が口を開く。


「『ヴォイス』か…。そのヒントになるかどうか解らないが、私が学生の頃、似たような言葉を聞いたことがある。『御魂声(みたまごえ)』というんだ。平家滅亡の折に、平家の倉から出てきた琵琶を奏でると、その琵琶から滅ぼされた平家の人々の声が聞こえてきたそうだ」

「嫌ですわ、先生。平家の怨念とロドリーゴさんのお話しが繋がるわけがないじゃないですか。気味悪いからそんなこと言わないでください」


 母親が首を横に振りながら師匠の発言に抗議を示す。もともと母は師匠と学生時代からの付き合いだから、会話もあけすけだ。


「いや、信子さん、話しは最後まで聞きなさい」


 師匠が汀怜奈に向き直った。


「私が修行中の頃に聞いた話なんだが、福岡県久留米市に、あるギター工房があって、そこの職人が創るギターからはこの『御魂声』が聞こえてくるそうなんだ」


 汀怜奈の目の色が変わった。


「先生、そのギターの『御魂声』を聞かれましたか?」

「いや、私が生まれる前の話しだし、…確か1960年頃にその職人も亡くなってしまい、その後はそんなギターは生まれていないようだが…」

「そのギターは、今どこにあるのですか?」

「まったくわからない…」

「探せば見つかるでしょうか…」

「どうだろうか…。多くのギター演奏家たちが必死に探したけど、結局1台も見つからなかったようだ」

「先生、そんなありもしないギターの話しなんかしたら、汀怜奈が混乱するだけじゃないですか」

「そうだな…失言だった。忘れてくれ」


 母親の小言に師匠も頭を掻きながら詫びる。汀怜奈は、しばしコップを見つめて黙っていたが、やおら顔を上げると師匠に向って静かに問うた。


「そのギターに名前はあるのですか?」

「ギターを売らんがための、宣伝用の伝説だったのかもしれないよ」

「構いません」

「えーっと…、職人の名前を取って橋本ギターと言われていた記憶がある」

「さあ、もうその話しはこれくらいにして…。汀怜奈も疲れているでしょうから、もう部屋に帰って休みましょう」


 母親は自ら席を立って、同席の人たちに自分に従うように促した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る