第33話
翌日、汀怜奈たちはDECCAのオフィスで契約についての打合せをおこない、母親はマネージャースタッフと汀怜奈を残して先に帰国した。
汀怜奈が残ったのは、プレスリリース用の写真撮影を現地で行わなければならなかったからだ。
艶やかなドレスを身にまとい英国の宮殿で行われた撮影。まさに淑女たる天才ギタリスタの登場にふさわしい気品と美しさに溢れたポートレイトになるはずである。
汀怜奈は、撮影の待ち時間で読んでいた英国の新聞で、ロドリーゴ氏の逝去を知った。97歳の長寿であったものの、世界中のどれほど多くの人々の涙が、その訃報を掲載した新聞を濡らしたことであろうか。汀怜奈もホテルに帰った後、目に一杯涙を溜めながら娘さんにお悔やみの手紙を書いた。
手紙を書きながら汀怜奈は決心した。音楽界の偉人から直接頂いた言葉を理解できないまま、演奏活動を開始するわけにはいかない。『ヴォイス』が奏でられないとしても、その正体をわからずして、どうして演奏できようか。
撮影の翌日、さらに残務の残るマネージャースタッフをホテルに残し、汀怜奈は帰国の為に単身ヒースロー空港に向かった。しかし、その途中で汀怜奈はタクシーを降りると、ヘアサロンを見つけ出して飛び込んだ。帰国の飛行機へのチェックインタイムにはまだ余裕がある。鏡の前に座った汀怜奈は、その美しく輝く長い髪を切るようにヘアスタッフに依頼する。切ると言うよりは刈り込むに近い。
昨日取られたポートレイトは、契約締結準備を知らせるプレスリリースと共にすぐに世界中に配信されるだろう。限られた時間で『ヴォイス』を探求するためには、狭い音楽界とは言え、多少顔の売れていることが邪魔になる。周りの人々が汀怜奈であると気づかれない自分を造る必要があった。
ヘアカットを終え、ヒースロー空港から成田空港へ。果たして、入管窓口で管理官がパスポートと本人を何度も照らし合わせるほどの別人の容姿を作りあげた汀怜奈は、成田空港に到着したその日に羽田空港へ乗り継ぎ福岡へ向かった。
母親へはただ『久しぶりの帰国なので、1週間ほど気晴らしの旅をしてまいります。心配しないで』と簡単なメッセージを送り、スマホの電源を切った。
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