第26話

 泰滋はその夜、自室のデスクで頭を抱えていた。


 目の前には便箋、傍らには進一郎の文通相手の手紙がある。なんだかんだ言っても、結局引き受けたのだ。進一郎がカメラのフィルムを3本付けると言いだしたので、その魅力に負けて断り切れなかった。


『結局俺はブルジュアの手先になり果てた…』


 泰滋はデスクに座りながら自らの頭を平手で叩いた。

 嫌な仕事は早くすまそうと、その日の夜にデスクに座り、父から大学の入学祝いに貰った木製の万年筆を握ったのは良いが、書く参考にと進一郎から渡された手紙を、読んでしまったことが失敗だった。


 手紙はとても短い文章だった。内容もどうってことは無い。ただ、本当に自分が感じたことを一文字一文字丁寧に書いてある。この女子高生が書いてあることに嘘が無いことが、泰滋を悩ませた。いくら傷つけたくないとは言え、こんな素直な人に、嘘の手紙を書いていいものなのだろうか。余計に傷つける結果にならないだろうか。手紙さえ読まなければ、とっくに書きあがっていたはずの便箋を前にして、彼は依然と頭を抱え続けた。


 泰滋はもう一度手紙を読み返した。『想いを察する』ということが美しいとされる京都の風土。悲しいを悲しいと言わず、季語、比喩、婉曲を駆使してそれを表現し、受け取る側はそれを察する。それは平安京の時代から、和歌を、コミュニケーションの道具とした公家たちに育まれた感性だ。

 逆に言えばそれが解読できない人間は、京都では社交の場から排斥されてきた。そんな京都の風土に浸って育ってきた泰滋にとって、そんなことにこだわらないこの女子高生の素直な感性は新鮮に感じられた。


 京都では野暮ったいと評されることでも、外の社会に通用する自分を確立させるためには、彼女のように、自分の考えや感じている事をストレートに言える感性を持つことが必要なんじゃないだろうか。しかし、京都での生活では、そんな感性を育てるのは難しい…。気楽に自分の気持ちをストレートに発言できる場がなかなかないのだ。ならば、手紙を書くという機会を借りて、実験的にそんな場を設けるのもいいのかもしれない。


 泰滋はペンを取った。もう嘘を書くのはやめよう。好きなことを書けばいいだ。どうせ会う相手でもない。


『前略 宇津木ミチエ様 初めてお便りさせていただきます。今まで文通をされていた進一郎くんに代わりペンを持ちました。実は、進一郎君には許嫁がいて…』


 泰滋の木製の万年筆は、氷上にあるスケート靴のように、滑らかに便箋の上を舞い始めた。

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