第15話

 ヨーロッパ鉄道の車中に居る汀怜奈は一睡も出来ぬままマドリード駅に到着すると、ロドリーゴ氏が住む家へタクシーを飛ばした。


 玄関で汀怜奈を迎えてくれたのは、美しい娘さんだった。もちろん汀怜奈の母より年上なのだが、知性と品を備えた瞳に、優しそうな笑みを浮かべて汀怜奈に歓迎のキスをしてくれた。


「実は、父は風邪を引いていて具合が悪いのですが、セニョリータ・ムラセが来るのを楽しみに待っていましたよ。どうぞ遠慮なくおはいり下さい。今はピアノの演奏中だから、少し待っててね」


 流暢なフランス語で汀怜奈をピアノが置いてあるリビングに導いた。そして果たして、そのピアノに対坐して、汀怜奈が尊敬してやまないあの巨匠ホアキン・ロドリーゴ・ビドレ氏がいた。汀怜奈がお会いした時、ロドリーゴ氏は97歳のご高齢であった。残念なことに汀怜奈がお会いした数カ月後にお亡くなりになったのだから、汀怜奈は貴重なお時間を頂いたことになる。


 ロドリーゴ氏は汀怜奈がリビングに入ってきても、鍵盤上の指を止めることなくピアノ演奏を続けている。氏は毎日必ずピアノを弾く時間を取るのだと、お嬢さんが汀怜奈に囁いた。高齢であるから右手だけで簡単なメロディを弾くだけなのだが、こんなご高齢になってもピアノとの距離を大切にする氏のご精進の姿勢に、汀怜奈はあらためて尊敬のまなざしで氏を見守った。


 『ラ・ヴィオレテラ(スミレ売りの娘)』。氏が最後に弾いた曲はスペインなら誰でも知っている国民的な懐かしのポピュラーメロディであった。欧米にも人気のあった曲だから汀怜奈もその曲を耳にしたことがある。


『遠くから来てくれてありがとう。どうかおくつろぎください。』


 ロドリーゴ氏がそう言って汀怜奈の訪問を歓迎してくれている気持ちが込められているようで、彼女のハートも熱くなった。


 ロドリーゴ氏がピアノの椅子に腰かけたまま汀怜奈に向き直った。失明されている事はわかっていても、その大きなサングラス越しに自分のすべてが見透かされているのではないかと、汀怜奈は緊張する。会話は娘さんを通しておこなわれた。


「父はミス・ムラセの演奏を聞きたいと楽しみにしておりました。よろしければ1曲お願いできますか?」

「もちろんです」


 汀怜奈はギターケースから愛器を取りだす。曲はあらかじめ決めていて、この日の為に練習を重ねてきていた。ロドリーゴ氏が作曲した『古風なティエント』である。

 曲名を告げると、氏は点字で表した楽譜を持ってこさせ、楽譜を指で触れながら汀怜奈の演奏を待った。


 実のところ、この時汀怜奈はどういう演奏をしたのかを憶えていない。チューニングを終え、指を弦に乗せた瞬間に記憶が飛び、そして気づいた時には最後の音をつま弾いていた。


「ドゥエンデ…」


 ロドリーゴ氏は、かすれる声でそう呟いた。

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