第13話

「泰滋は、たしか3期生やな」

「ええ」

「早いもんやな、再来年の春は卒業か…」

「ええ、当然そうなりますやろな」

「来年はいそがしくなるやろから、そろそろ会社訪問用の洋服仕立てなあかんな」


 損保の仕事をしている父は、息子にも金融関係、特に堅実な銀行の仕事をして欲しいと願っている。その仕事をやれと父親の強権で泰滋に命令するならまだしも、どうも息子から言いだすのを待っているようだ。そんな想いが父親の言葉の端々から如実に感じられる。


 泰滋は彼が通う同志社の「建学の精神」を思った。自由主義に則り、学生が主体的に考え、行動できるような配慮を持って、「良心を手腕に運用する人物を養成する」。

 そんな精神で設立された同志社の、しかも先進的な議論を繰り広げる新聞部で自由を満喫している泰滋にとっては、この父親の願いが息苦しくて仕方が無い。


 そもそも若い彼にとっては、自分が住む京都そのものの風土が息苦しくて仕方が無かった。例えば京都の町では家を訪問し、用事を済ませて帰ろうとすると「ぶぶ漬けでもどうどす?」と言うのは有名な話だ。この言葉の本当の意味は『折角家に来てくれたのだから、来客に食事を出したいが、それだけのモノが無い。せめて茶漬けでも食べていってもらいたい』という家主の心なのだが、面倒くさいのはそこからだ。

 たとえ訪問先の家主が泣いてすがって茶漬けを食べていってくれと哀願したとしても、客は決して受けてはいけない。実物の茶漬けが出されなくとも客はすべてを明察し、相手の言葉だけをありがたく受け、訪問先から辞することが美徳とされている。まさに京の茶漬けの言葉は、京都が古くから培ってきた「礼」と「好意」の現れなのだ。


 だがこの話しには当の京都人も気づかない重大な誤りがあると泰滋は考えていた。自己責任において自分が出来ることと出来ないことをはっきりと伝え、問われた方は、欲している事、欲していないことを相手にはっきり伝えてこそ、正しい「礼」と「好意」が成立するのではないだろうか。だから京都で一生を過ごしたら、そんな風土にどっぷり浸かって、自分の感性もゆがんでいってしまいそうで怖かった。


「泰滋ちゃん。ごはんできましたで」


 台所から母が呼ぶ声がした。


「ほな、おとうさん。失礼します」


 泰滋は父から受ける言いようのない息苦しさから逃げるように、母のいる台所へ急いだ。

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