第12話

「ただいま」


 編集会議を終えた泰滋が、京造りの狭い引き戸を開けて帰ってきた。狭い入口の割には奥が深く広いのが京都の家屋の特徴だ。


「おかえりやす。もうすぐな、ご飯できるさかいに、まっててな」


 母がいつもながらのゆっくりとした喋り様で泰滋を迎えた。


「おかあはん、急がんとええで。僕も手伝うから…」


 泰滋はそう答えてふと玄関先を見ると、黒光りする革靴があることに気づいた。


「なんや、おとうはん 帰ってはんのんか?」


 母が肩をすぼめてウインクをした。母ながら時々その時代にそぐわない(さしずめAKB48的とも言うべきか…)とてつもなく可愛らしい仕草をするので、泰滋も戸惑う時がある。


「泰滋、帰ったんか?ここ来て一緒に呑まんか?」


 父 泰蔵は早々と会社から退けて、借家の奥にある小さな庭の縁側で晩酌を始めている。キセルを咥えた父の前の盆には、いつもながらの徳利、おちょこ、そして冷奴がある。父は京都の清水で作った豆腐が大好物で、その白さに誇りさえ感じているようだった。


「おとうはん、えらい早いな」


 泰滋は、父の傍らに座りながら声をかけた。父が底にわずかに残った日本酒を庭に払って、お猪口を泰滋に差し出す。


「このあと大学の書きものがあるんで、今は遠慮しておきます」

「なんや、愛想ないやっちゃなぁ」


 父はそう愚痴りながら、自分で自分の為に日本酒を注いだ。

 泰滋はこの借家で生まれた。もともとは、傍にある富田病院の職員宿舎であったのだが、職員でもない父がどういう交渉をしたのか知らないが、長年住んでいる。しかもほんのわずかな賃貸料だ。父は、若い頃から行商で苦労しながら商業畑で生活し、今は安田火災の保険外交員として働いていた。

 金融界の一員としてふさわしい倹約家であり、マイホームを持つだけの充分な貯蓄はあったのだが、いずれ自分が死んだら時子は実家の山梨に帰るだろうと家を買うのを控えていた。時子が苦労の新妻時代に、こんな京都に一生暮らしたくはないと、泣いて訴えていた事が心から離れないのだろう。

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