最終章「ゼロとなれ」

第1話

チャイムが鳴る。

始業を知らせる音を聞きながら、凪は廊下を駆けていた。

授業が始まるより前に、席についているのが当たり前だった少年にとって、こんな経験は生まれて初めてだ。

しかも、目指しているのは自分の教室ではない。

目的地にたどり着くと、ためらわずに扉を開く。

ガラガラガラっ!!

 大きな音が響くと共に、教室内の人間が一気に視線を向けてきた。

 だが、凪は怯まない。

「君っ! 教室を間違えているぞっ! 早く戻りなさい!」

 ホームルームを始めようとしていた教師から叱責の言葉が投げかけられる。しかし、凪は無視した。

 代わりに、教室の中を見渡しながら、目的の人物を探し出す。

 そのまま教室へと入っていくと、彼女の席の隣に立った。

「おい! 話を聞いているのか! 出ていきなさいっ!」

 教師が怒鳴りながら近付いてくる。だが、凪の視線は目の前の少女に注がれていた。

「貴様! 無視するとはいい度胸……」

 怒りに震える教師を静止したのは、イスから立ち上がった少女だった。手のひらを教師に向け、ゆっくりと首を横に振る。

「申し訳ないが、彼は私に用があるらしい。生徒会長として、話を聞く義務がある。しばらく教室を離れるが……許可をいただけるだろうか?」

 白野姫子からの申し出に、教師は反論することなく頷く。

「助かります。ここでは話しにくいこともあるだろう。生徒会室まで行こうか」

「わかりました」

 教室中の注目を浴びながら、凪と姫子はゆっくりと扉を出ていき、廊下を歩いていった。


「さて、私にどんな要件かな?」

 生徒会室に入るなり、姫子は凪に問いかけた。手を腰に当て、堂々とした振る舞いを見せる彼女は、まるで凪が来ることを知っていたかのようである。

 だが、その理由について詮索しようとは思わない。凪に必要なのは、彼女の協力だけである。

「力を貸してほしいんです」

「転校生……フィリア君を助けるため、かな?」

「はい、そうです」

 眉を一つ動かさず、凪の返事を聞き、そして答える。

「では、答えはノーだ。私にはフィリア君を助けてやる権限はない。風紀に反する生徒について、風紀委員が正規の手続きで拘束しているに過ぎん。もちろん、行き過ぎた行為があれば、私も介入できようが……おそらく、そうした行為はない。向こうもわかっているからだ。生徒会が動けば厄介なことになる、と」

「でしょうね。ランはそういう部分は昔から上手いですから」

「わかっているなら、頼む相手が間違っているのではないかな? 私にできることは何もないぞ」

 言葉は丁寧ながら、視線は異様に冷たい。

 白野姫子という少女は、自らを律するという点において、誰にも負けたりはしないだろう。

規則を遵守し、道理を信奉し、自戒を尊重する。

 だからこそ慕われ、だからこそ強い。

「わかっていても、あなたの力が必要なんです」

「私の信念は曲がらない。君がいくら頭を下げたとしても。今の私には、フィリア君を助けることはできない」

「いいえ、違います」

 凪の一言で、姫子の表情が驚きの色を得る。

「どういうことだ?」

「お願いしたいのは、フィリアを助けることじゃない……それは僕の――俺の役目です」

「ほう? では一体何をお願いされているのかな、私は」

 今度は関心に満ちた瞳を向けられた。予想外の「お願い」を期待する視線である。紺色の長髪を一度だけ掻き揚げ、凪の答えを待つ。

「ランのところまで連れていってください。多分、俺が一人で行っても追い返されるだけなので」

「行ってどうなる? 君の演算割当では、風紀委員長代理、一条ランには決して敵わないだろう。返り討ちに遭うだけではないか?」

「いいえ、勝ちます。俺はランに勝って……フィリアを取り戻します」

 ますます姫子は興味を引かれる。到底勝ち目などない相手に、「勝つ」と言い切る男が、自分と競う前から土下座をした人間と同一だとは思えなかったからだ。

「勝つ方法がある、と? それは、私にも通用するものかな?」

「はい、この方法なら、あなたにも勝てる可能性はあります」

「はははっ! これは……何と愉快な展開だろうかっ! いいだろう! なら、その方法を見せてもらおうかっ! 話はそれからだ!」

 目を輝かせながら、臨戦態勢に入ろうとする姫子。だが、凪はゆっくりと目を閉じる。

「それはできません」

「なぜだ? 私を打ち負かせば……いや、勝てる可能性がある方法を見せてくれるなら、手を貸してもいい、と言っているのだぞ?」

「これは……一度しか使えない方法です。二度目はない。今、ラン以外の相手に使うことはできません」

 二人は視線を交わす。姫子から向けられる訝しむような視線に、凪はうろたえることなく向き合っている。

「ハッタリにしか聞こえないぞ、君の言い分は。私を体よく利用しようとしいるのではないか?」

「そう受け取られるのは……わかっています。それでも、こういうお願いをするしか……方法が残されてないんです」

 姫子は嘆息を漏らした。目の周りを手で覆い、残念そうな表情を浮かべる。

「惜しいことをした。私にも勝てるかもしれない方法があるという話を聞いておきながら、それを体験できないとは。だが、致し方あるまい。これは既に交わした約束だからな。いいだろう、君に力を貸してやる」

「約束……ですか?」

「ああ、そうだ。昨日の夜、美樹くんから連絡があったのだ。『凪のことを助けてほしい』と」

「ツミキが……?」

「だが私は断った。それでも繰り返し頼んでくるものだから、私もつい『本人が頼むなら聞いてやってもよい』などと返してしまったのだ。君は感謝するべきだぞ、美樹くんにな」

「そう……ですね」

 万丈先輩の件もそうだった。

 あれだけヒドいことを言ったのに、それでも自分を心配してくれる人がいた。

 知らなかったこと、気付かなかったこと……そういうものがたくさんあると、今さらながらに実感する。

「しかし、せっかくの期待を裏切られたのは少し癪だ。だから、一つだけ聞かせてほしい」

「……何ですか?」

「私を嫌い、避けていたようだが……どうやった? どれだけ注意を払おうと、同じ学園に通っている人間と、五年間顔を合わせないというのは難しいと思うのだが?」

 凪は一瞬だけためらいを覚える。

これまで秘密にしてきた方法について、ここで語ってしまって良いのか?

 だが、それでフィリアを助けるための協力が得られるのなら安いものだとも思う。

「簡単ですよ。あなたの……姫子さんの位置をチェックしていたからです。」

「何だと? それは……不可能だろう。特別な権限があるのならともかく、一般の人間が、他人の位置というプライベートな情報を閲覧することなどできはしない」

「いいえ、私は『姫子さんの位置』を見ていたわけじゃないんです」

「……言っていることが矛盾しているぞ?」

 眉を吊り上げ、睨みつけるような表情を浮かべながら詰め寄られる。

フィリアや美樹と比べると些か控えめではあるが、服の上から女性特有の膨らみがあたっているが感じられた。

だから凪はすぐさま彼女の体を引き離し、落ち着くように促す。

「矛盾はしてません! 俺が見ていたのは、『姫子さんの位置』なんてパーソナルな情報じゃないんです。チェックしていたのは、『最も演算割当の大きな人間の位置』だったんですよ」

 周囲五〇〇メートル圏内という範囲を限定し、その中で最も演算割当の大きな人間の座標だけをチェックする。この程度であれば、プライバシーを侵害する情報にはなりえない。ただし、学園の中において、この条件に該当する人間は絞られる。

「該当する人間との接触を避けてさえいれば、姫子さんと遭遇する可能性は〇になる。例え、本人でなかったとしても問題はない。あくまで、『姫子さんと遭わないこと』が大切だったんですから」

「なるほど……そんな方法があるとは思わなかったな。なかなか個性的な発想だな。だが、そこまでして私を避けるというのは……どういう理由があった? 凪くんの事情はわかったが、それだけが根拠とは思えないのだが?」

「聞くのは一つだけ……そう言ってませんでしたか?」

「む……そうだな。これ以上は詮索しないとしよう。そして、約束は果たす。君を風紀委員長代理、一条ランのところまで送り届けよう」

 一瞬だけ表情を曇らせた姫子だったが、気を取り直したように笑みを浮かべる。そして、凪を先導するように、生徒会室から出ていった。

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