第7話

 部屋の扉の前に立つ。凪はいつものように鍵を開け、ドアノブに手をかけた。

 ドアを開けばいつもの光景。自分の部屋が視界に広がるだろう。

 雑然と置かれた本。万年床となった布団に、古めかしいラップトップが見える。男の一人暮らしならではの、何とも言えない寂しい部屋があるはず。

 誰にも邪魔されない、自分だけの場所がある。

 それなのに、凪はなかなかドアノブを回すことができない。

 もしかしたら、扉を開けば現れるのではないか。最初の時のように、現れてくれるのではないか。

 そんなわけはない。彼女は連れていかれた……奪われた。弟が持っていったものは、一度として凪の手元の戻ったことはない。

 なのになぜ、期待を感じてしまうのか。

「シュレディンガーの猫……か」

 箱を開くまで、中にいる猫が生きている状態と死んでいる状態が重なって存在している。

 量子物理学の例え話。

 そんな話を思い出して、扉を開くのをためらっている。

「どうして入らないの?」

 美樹が尋ねてくる。まだ体調が戻っていない凪を心配して、自宅まで付き添ってくれていた。

「いや、別になんでもない」

「なら、早く入りなよ」

 扉と凪の間に入り込み、美樹はそのままドアノブをひねる。

 ガチャリという音と共に、部屋の風景が視界に入る。窓やカーテンが締め切られた部屋は、キッチン脇の小さな窓から漏れる光以外なくて薄暗い。

「相変わらず辛気臭い部屋ね! 片付けなさいって言ったのに……掃除くらいはしたんでしょうね?」

「……してると思うか?」

「ぜんぜんっ!」

 素っ気ない返答に、明るく応じる美樹。

 玄関にあるスイッチを押すと、廊下の電灯が点く。美樹はそのまま部屋へと入っていき、部屋にも明かりを灯した。

「他人の家に勝手に入るなよ」

「じゃあ……入ったよ!」

「事後承諾って」

「いいじゃない別に、今さらでしょ! 私と凪の仲なんだしっ!」

 こちらに向き直ってにこりと笑う。普段なら特別な感情など抱かないはずだが、今の凪にとっては心をざわつかせるものがあった。

 だが、言葉にすることはなく、そのまま部屋へと入っていく。

 そして、敷きっぱなしになっている布団の上に腰を落とした。それから、周りをぐるりと見回す。

 ――やはり姿は見当たらない。

 当然である。彼女は連れていかれてしまった。だがら、この部屋にいるわけがない。

 本来ならそう考えるべきだ。だが、最初から彼女は普通ではなかった。

 不意に、唐突に、突然に……現れた。

 だから今度もまた、いつの間にか部屋に現れるかもしれない。そんな淡い期待はいともたやすく打ち砕かれたのだ。

 現実を突きつけられ、大きなため息を吐く。すると、美樹が急に顔を近付けてきた。

「どうしたの? やっぱり、まだ体調が悪い?」

「そういう……わけじゃない」

 ふいっと顔を背ける。だが、美樹は凪の両頬に手を置いて、無理やり視線を自分へと向けさせた。

「ウナギ君、君のそういうところはいけません。必要な時はきちんと周りを……私を頼りなさいよ」

 コツンとおでこ同士がぶつかる。

「うん、熱はないみたい……やっぱり顕現のせいか。もうダメだよ、無理なことしたら。ウナギのせいじゃない……これは仕方がないことだったんだから」

「仕方がない……仕方が、ないだって?」

 なぜだろうか。

 その言葉は、いつだって凪の胸にあった。

 何もないのが当然で、奪われるのが必然で、持ってないのは仕方のないことで……。

「仕方がない……そうだよな、仕方がないよな。俺には何もないもんな」

「何もないなんて……そんなふうに言うのは、ちょっと違うと思うけど」

「何が? 何が違うんだよ! いったい何が違うんだ!? 言ってみろよ!」

 急に大声を張り上げたために、美樹は驚いてバランスを崩し、尻もちをついてしまう。

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