第6話

「それは僕のものだ」

 幼い頃、凪にそう言い続けた少年がいた。彼は至って優秀で、親の希望を一身に受けた弟だった。

 だから、彼は凪の持っているものなら、何でも自由にすることができた。

 凪の持っているものなら、親は何でも取り上げて弟に渡したのである。

 理不尽だと感じたりはしなかった。始めからそうだったし、それが当然だと思っていたから。

 逆らったことはなく、駄々をこねるつもりもなかった。

 だって、誰も自分など見ていないから。

 ここに『いる』のに、どこにも『いない』と、知っていたから。

『意味なんて知らなくてもいいのよ』

 その言葉は慰めだった。何もない自分を癒やしてくれる気がした。

 だけど、結局は追いかけてくるんだ。「そこにどんな意味があるのか」という、自分自身への問いかけが。


 ゆっくりと目を開く。

 目が痛い。ずっと瞼を閉じていたから、闇に目が慣れてしまっているせいだ。目に入る光から、強い刺激を受けてしまう。だが、それもしばらくすると収まり、白い天井が映る。

 見覚えがある。おそらく校舎の中だろう。

「凪っ! もう、ようやく起きたの?」

 こちらも聞き慣れた声。どうやら美樹が近くにいるらしい。

 体を起こすと、居場所に見当がついた。白いカーテンに、ラベルを貼った瓶が大量に並ぶ棚がある。そして自分が横になっていたベッド。ここは保健室だ、と。

「俺は……いったい」

「急に意識を失ったから何があったのかと思ったよ。ここまで運んでくるのは多少手間がかかったが、大事なくて何よりだ」

 ベッドの正面に仁王立ちしている少女の姿に、凪はまだ夢を見ているのかと思った。だが、その堂々たる姿は見紛うはずもない。

「生徒会長……フィリアはどうなったんですか?」

「風紀委員が連れていった。まあ、そう手荒な真似をするとは思えない。本来の風紀委員長なら、もう少し話せたはずだが……今は仕方がない。むしろ、彼のことは君のほうがよく知っているのではないか、一条凪?」

「……どうして止めてくれなかったんですか?」

「何?」

 まるで他人事のように話す姫子に対し、凪は怒りを込めた視線を向ける。

「あなたなら、止められたんじゃないですか!? 何が『素晴らしい友人』だ! 何もしないで攫われるのを見送るだけなんて、ご立派なことですね!」

「ちょ……ちょっと、凪! 姫子さんはあなたをここまで連れてきてくれたのよ。それを……」

 凪の悪態を止めようとする美樹。だが、彼女の言葉を遮ったのは姫子自身だった。

「そう、止めなかった……止められなかった。生徒会は学内を取り仕切る組織であり、私はその長だ。あらゆる問題について、優先的に介入する権限がある。だが、学園内にある組織は生徒会だけではない」

「知ってますよ、風紀委員会だってそのうちの一つだ。でも、あなたなら……!」

 なおも食ってかかろうとする凪。だが、意識がハッキリしてきたせいか、頭の痛みも戻ってくる。体勢を崩し、危うくベッドから落下しそうになった。

「ちょっと……さっきまで気を失っていたんだから、大人しくしてなさいよ!」

 美樹が支えたおかげで何とか体を起こした。

 見ていた姫子は、訝しげに眺めている。だが、彼女は話を続けた。

「それぞれに役目を持った委員会は、生徒会の下部組織だ。だが、それは生徒会に従属するという意味ではない。担うべき役割においては、生徒会と同等の発言権を持つ。そして風紀委員が権限と責任を持つのは学内の秩序。すなわち、学園を生徒達にとって健やかな勉学の場として維持することだ」

「それと、フィリアが攫われたことと何の関係が……」

「学内秩序を乱す者を拘束する権限を持っているのだ、風紀委員は。そして、あの転校生――フィリア君は一般の生徒とは違う何かがあるらしい」

「らしい……? らしいって何ですか? そんなんで納得して、見逃したっていうんですか!」

「風紀委員長代理として、彼はその権限を行使した。であれば、私に介入する術はない。もちろん、転校生に一切の非はないと証明できるなら話は別だがな」

「それは……くっ!!」

 頭痛が続く。次第に弱くなってはいるものの、時折バットで殴られたような痛みが走り、意識が朦朧とする。

 さすがに姫子も尋常ではないと感じたのだろう。

「あの時からずっと、頭に痛みを覚えているらしいな。それが、一条ランの固有演算(オリジナルコード)の効果か? だが、いかなる顕現であっても、臓器に直接ダメージを与えることはできないはずだが」

「……これは、違いますよ。あいつとは関係ない」

 姫子は「どういうことだ?」と詰め寄った。頭の痛みが、ランの顕現とは関係がないと言い切った。つまり、凪は頭痛の原因を知っている。

 だが、姫子の問いかけに、凪は答えようとはしなかった。

 しばらく沈黙が続いたが、静けさをかき消したのは美樹の声だった。

「凪は……端末不適応(アンチデバイス)障害なんです」

「美樹……お前っ!」

「凪、私に言ったよね? 諦めてるんだって。だから私、安心してたんだよ? なのにどうして……どうして顕現なんてしたのよ! しんどいの、わかってたはずなのに!」

 凪は言葉を探す。けれども、美樹の問いに答える方法が見つからない。どんな言葉が適切なのか、どんな返事が正解なのか……まったくわからなかった。

「端末不適応……確か、ニューロデバイスと接続できる脳の領域が一般よりも狭いという症状だったか。だが、顕現によって頭痛を伴うなど、聞いたことがない」

「……僕は特にひどいんですよ。一般平均の半分以下が不適応の基準です。でも僕は……一〇分の一もないんですよ。だから、割当容量も二十八位階が限界なんです」

 単に容量が増やせないというだけではない。一般的な人なら難なく利用できる顕現でさえ、凪の場合は健康に影響を及ぼすという。脳に負担がかかり、強烈な痛みが走るばかりか、意識さえ失うこともある。

 真実を絞り出すように告げる凪。驚いた表情を浮かべる姫子、だが次第に得心がいったという顔になる。

「それで私と競うことを拒んだわけだ。勝ったところで得られるものなど存在しないから」

「それだけじゃ……ないですけどね」

 凪と姫子の視線が重なる。力強い彼女の瞳から、凪は目をそらすしかなかった。

 姫子はそのまま保健室の出口へと向かう。

「フィリア君に関しては、私も気にはかけておこう。だが、彼女の潔白を証明するほうがずっと簡単だ。証明できるのなら、だがな」

 ガラガラと扉が閉じる。立ち去る彼女の背中を見ることさえできない。

「ねえ、凪……もういいじゃん! できること頑張ったんだから、それで」

 頑張った。

 できることは尽くした。それでも、手に入らないものはある。足掻くことなんて、無意味であると、誰よりも知っている。

 だから、手に入らないものを求めたりしない。

 凪は頭の痛みが引くと、そのまま家路に着いた。

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