第四章「敗北=喪失という原則」
第1話
少女が読みふける『不思議の国のアリス』というお話は、本当に不可思議な内容だった。
アリスという名の少女が、白いウサギを追いかけていく。訪れた先には体を小さくする薬やら、逆に体を大きくする焼き菓子やら、不思議なものがたくさんある世界。
何より不思議なのは、登場するキャラクター達だ。
他人の中から不快な部分を探しては「首をはねろ!」と叫ぶトランプの女王。
六時のお茶会を延々と続ける狂った帽子屋。
そして、いつでも笑いを浮かべる奇妙なチェシャ猫。
唐突に現れたと思うと、笑い声だけを残して消えてしまう。『どこにでもいて、どこにもいない猫』だ。
「まるでシュレディンガーだ」
思わず口から溢れてしまう。
「しゅれでぃんが? なに、それ?」
凪と一緒に本を読んでいたフィリアが尋ねてきた。
「いや、フィリアに言ってもわからないよ、きっと」
説明を拒むと、フィリアはあからさまに不機嫌な表情になる。
「あら、そういう言い方よくないわよ? せっかく興味を持っているのに。私も気になるから、教えてくれないかしら」
凛子が料理をテーブルに並べながら、凪にウィンクをしてみせる。
結局、本を借りるだけではなく、食事までごちそうになるハメになってしまった二人。
断って帰ろうとした時にはもう、「用意ができている」と言われ、凪も断れなかったのだ。
「そうですね、凛子さんになら。『シュレディンガーの猫』という思考実験があるんですよ、量子力学の世界には」
「科学の世界に猫がいるの? なんだか素敵ね」
ニコッと笑いながら席につく凛子。この先の説明について考えると、凪は少しだけ気が引けてしまう。
「科学の世界で動物が出てくると、大抵は命を奪われてしまいます」
「そうね、実験というのはそういうものだわ。で、その猫も死んでしまうの?」
冷静に返事をする凛子は、凪に用意したシチューを食べるよう促す。お腹が減っていたこともあり、スプーンを手にとって食事を始める凪。
すると、真似をしてフィリアも食事を始めた。
「これ美味しい! 美味しいよ、リンコ!」
「ありがとう、フィリアちゃん。凪くんも、お口に合うかしら?」
「はい、とても」
「あら良かった。それで、猫はどうなるの?」
食事をしながらする話とも思えなかったが、尋ねられた以上は応えたいと思う。
「お察しの通り、死んでしまいます。ただし半分だけ」
「半分だけ?」
「詳しい話は難しいので省きますが、ある実験によって猫が死ぬかどうか……確率は五〇%になる。けれども、結果を確認するまで、猫は死んだ状態と生きた状態が重なったままになっている。だから、猫は半分死んでいて、半分生きているんです」
「よくわからないわね? 猫が生きているかどうかなんて、見ればわかることじゃないの?」
当然の疑問を聞く。興が乗ってきたのか、凪は少し楽しそうな声で話し始める。
「普通の感覚なら。ですが、これは量子力学の話です。とても『小さな』世界の出来事。そこでは物質――素粒子は、あらゆる状態が『重なっている』んです。動いている状態と止まっている状態が同居している。そして、誰かが観測することで状態が確定するんです」
「観測することで状態が決まる……見る人がいなければ、あらゆる状態を含んだままになるってことかしら」
「その通りです」
凪はパチンと指を鳴らす。
「量子力学に関わる実験の結果、猫が死ぬかどうかは確認するまでわからない。そして、確認してしまえば、本来知りたい『重なっている』状態は理解できない。だから、猫は半分死んでいて半分生きている状態だ……としか言えないんです。『いる』ようで『いない』チェシャ猫に似ていると思いませんか?」
「そういう意味なのね。少しわかった気がするわ」
凛子は首を縦に三度ほど小刻みに振ると、用意した食事に口をつけはじめる。
「ぜんぜんわかんないよ? ナギ、なに言ってるの?」
むくれ面になるフィリアを見て、頭をポンポンと撫でる凪。
「でも凪くんは物知りね。そんな難しいことまで知っているなんて」
「そう……ですか? 僕には知らない人がいるほうが不思議ですよ」
「どういうこと?」
凪は右腕を上げる。そして手首の部分を指差した。
「これが……ニューロデバイスが――いえ、〈イデア〉そのものが量子物理学の賜物なんですよ。存在と非存在、〇と一の狭間を認識する量子コンピュータ。この世界はもう、シュレディンガーの猫の背にあるも同然……誰も意識なんてしていないけれど」
先ほどまでの楽しげな語り口とは打って変わって、凪は苦々しい口調になる。彼の感情の変化を察知してか、今度は凛子の声が柔らかく響いた。
「そうね、私達はよく知らないものの上で生活しているわ。でも、それは当たり前のことかもしれない。生まれてきた意味を知らなくても人は生きていくわ。子供が誕生する原理を知らなくても母親になることはできる。出会った理由なんかなくても友達になれる。私と凪くんみたいにね」
凛子の言葉に、凪は黙り込んでしまった。すると、彼女はさらに付け加えた。
「私の手料理、美味しく食べてくれたでしょ? 作り方なんて知らなくてもいいのよ。作ってくれる人がいるなら、それでいいの」
「作り方……ですか。でもそんなの、デバイスを使えば……」
凛子は人差し指で凪の言葉を遮った。そして、凪とフィリアの前に置かれた空の皿を持ち上げる。
「知らなかった? 私はこう見えても古風な人間よ」
彼女が何を言いたいのか、凪には最初わからなかった。だが、空いた皿を両手に持ってキッチンへと歩いていく凛子を見ているうちに気が付く。
そこには手入れの行き届いた様々な調理用具や調味料が並べられていた。つまり、凪とフィリアに振る舞われたのは、文字通りの「手料理」だった。
部屋に戻る頃には、フィリアは疲れてしまっていた。美味しい料理をお腹いっぱいに食べたのもあり、うつらうつらとした様子だ。
ガチャリと扉を開けた瞬間、彼女が立っている方向から押されたような気がした。
目を向ければ、立っているのもやっとになったフィリアが、寄りかかってきているのがわかる。
「おい、フィリア。もう少しだから……中入ったら横になっていいから」
「眠いよぉ、ナギィ……」
凪は急いで扉の鍵を開き、部屋へと入っていく。フラフラとした足取りのフィリアが倒れないように気を遣いながら。
そして、布団の前まで来ると、フィリアに横になるよう促す。しかし……。
「もうダメぇ……」
「お前、ちょっと待て……うわああぁぁっ!!」
フィリアは眠気に耐えられず、そのまま布団へと倒れ込んでしまう。それに巻き込まれるように、凪もバタンと布団に背中を落とすことになった。
「スー……スー……」
体勢を立て直すと、フィリアのぐっすりとした寝顔が目に入る。
「まったく……人の気も知らないで」
真っ白な肌に輝くような銀髪。
まるで人形のような美しさを持った少女に、凪は戸惑いばかりを覚えてしまう。
「哀れみも、蔑みも、同情も……ないんだよな、お前には」
『出会った理由がわからなくても』
ふと凛子の言葉を思い出す。
目の前の少女が、どうしても自分の元にやってきたのか……疑問に思わないわけではない。
それでも、今はただ彼女が隣にいるという事実に、少年は感謝するのだった。
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