第7話

「あら、いらっしゃい」

 長い三つ編みを揺らしながら歓迎してくれた女性は、いつもながらの笑顔を向けてくれる。

「本、返しに来ました。また、借りていきたいんですが……」

「もちろん! 気になった本は持っていっていいわ」

「ありがとうございます……あの、ちょっと聞きたいんですけど」

「あら、何かしら?」

 凪が凛子の立っているカウンターに近付こうとした時、フィリアが間に割って入ってきた。

「ネコ! チェシャ猫!」

「チェシャ猫? あら、不思議の国の?」

 フィリアの発した単語に、凛子を即座に反応してみせた。

「知っているんですか?」

「もちろん! かつて世界中で翻訳された児童小説だわ。ある意味では、最もポピュラーな童話だった……なんて、祖父なら言ったかもしれないわ。おかげで、たくさんの人から『あるなら譲ってくれ』って言われたわよ。そんなものはないって、断ったけどね」

「そう……ですか」

 凛子に話を聞き、凪はうなだれてしまう。今の言い方では、おそらく置いていないのだろうと考えたからだ。

「それで、どうして『不思議の国のアリス』なの?」

「うーん、ちょっと学校の先輩がフィリアに挿絵を見せてくれて……チェシャ猫の。それが気に入ったらしくて、もし本があればと思ったんですが……仕方がないですね」

 ため息を吐く凪。それを見て、凛子は不思議そうな表情を浮かべる。

「あら、ダメよ。そんな暗い顔をしていては。せっかくの男前が台無しになってしまうわ」

 カウンターから出てきた凛子は、凪の背中をポンと叩くと、そのまま本棚の森へ姿を消していった。

 そして、戻ってきた彼女は、一冊の本を手にしている。表紙には、『不思議の国のアリス』と記されていた。

「え? でもさっき、そんなものはないって……」

「売り物にする本はないって意味よ。手にして読みたいと思う人のための本なら、ここには――文字通り山ほどあるわ。さあ、フィリアちゃんに渡してあげなさい。でも、『にほんのどうわ』より少し難しいから、読み聞かせてあげるといいわ」

「……ありがとうございます!」

 凪は凛子から本を受け取ると、それをフィリアに渡す。

「フィリア、これが例の本だってさ。帰ったら一緒に読んでやるよ」

「ほんと? ナギ、いっしょに読んでくれるの?」

 驚きと喜びが同居したような、何とも言えない表情をするフィリア。だが、そんな顔でさえ、どこか色っぽさを覚えてしまう。だから、凪も思わず見とれてしまったのだ。

「こらっ! ダメよ、そんな風に女の子の顔をまじまじと見つめたら。そういうの、勘違いさせるんだから。それとも、やっぱり凪くんはフィリアちゃんのこと……」

「……そういうんだったら、よかったかもしれませんね」

 浮かんできたのは後ろめたさ。

 生徒会長から告げられた言葉を思い出す。

『彼女に価値を見出しているのであれば』

 おそらく他意はなかったのだろう。偶然、そういう言い回しになってしまっただけ。だが、今になって思うと、凪はその言葉に胸を穿たれたような気分だ。

「僕はこの子に……フィリアに、普通の女の子とは違う意味を感じています。恋愛とかじゃなくて……一緒にいれば、自分にとって得がある。そういう馬鹿げた理由が」

 そこまで口にして、凪は言葉を止めた。本来は胸の内に秘めておくべきものが、この時はなぜか抑えきれなかった。

 彼の言葉を聞き、凛子は「ふふふっ」と笑ってみせる。

「……何がおかしいんですか?」

 不機嫌そうな顔をして、凪は凛子に言う。だが、彼女は首を横に振った。

「ごめんなさい。ただ、若いっていいなと思っただけよ」

 凪は目を見開いて、意味がわからないといった様子だ。だから、凛子は言葉を続けた。

「私は本が好きなの。たくさんの本を読んで、好きな本もたくさんあるわ。でもね、どれも同じように好きなわけじゃないわ。夢を与えてくれる素敵な本もあれば、悩んだ時の道標になってくれる本もある。実用的で役立つ本だって大切にしているわ。でも、本当に面白いのは、そうした意味が変わっていくことなの」

「意味が……変わる?」

「そう。最初はただ役立つだけだと思っていた本が、いつの間にか自分の夢に繋がったりする。子どもの読むような本なのに、大人になった私を助けてくれたこともあるわ。人との繋がりだって、きっとそう。いま感じていることが全てじゃないはずよ。あなたがきちんと向き合うのなら」

 凪はフィリアのほうへと視線を向ける。手にした本を一生懸命に読もうとしている少女の姿に、凪は不思議と胸が温かくなるのを感じた。

 すると、彼女も凪へと顔を向ける。

「ナギ! これ、どういう意味かな?」

「ん? どれだ?」

 はしゃぎながら手招きをする少女。促されるまま、フィリアが持つ本を覗き込む。

「えーっと、これは……」

 仲良く本を読んでいる二人の姿を見て、凛子は部屋のドアを開いた。三人分の夕食を作るために。

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