第8話
〈イデア〉が管理する顕現によって、人が命を奪われることはない。もし致命傷になるような状況が生まれた場合、強制的に顕現が失効する。代わりに、対象となった人物は一定の時間、意識を奪われる。
これは安全装置である。〈イデア〉による顕現は、人の生活を便利に、そして快適にするもの。だが、いつの時代も人類は文明の利器を暴力に変えてきた。それは、どれだけ素晴らしい技術を現れても同じである。だから、『人の死に関わる使用はできない』という制限が〈イデア〉に設けられたのだ。
などという、基本的な講釈が流れる夢から目覚める。
目の前には、心配そうに覗き込むフィリアの顔。
「ナギ? ナギ! 起きた?」
「あ、ああ……えーっと、何が……」
思い出してみる。幼馴染の少女から強烈な一撃を見舞われた映像を思い出し、若干の身震いがする。
「意識喪失(ブラックアウト)してたのよ、ウナギは」
「させたの間違いだろ」
身体を起こすと、部屋の反対側に正座して座っている美樹の姿があった。凪の視線に対し、明らかに警戒するポーズをとっている。
「見ないで」
「いや、ここ俺の部屋だし」
「私を部屋に連れ込んで……あんなハレンチなこと……」
「いや、お前が勝手に入ってきたんだろう?」
「しかも、転校生に……口に出すのも恥ずかしいような格好させて!」
フィリアのほうを見る。きちんとスカートを履いていて、ブラジャーも身に着けている。どうやら、美樹が世話を焼いたらしい。
「……それについては言い訳が思い浮かびません。ごめんなさい」
凪はゆっくりと頭を下げる。その姿を見て、美樹は大きくため息を吐く。
「ちゃんと説明してよ。別に……ウナギに彼女がいるっていうなら……それは別に仕方がないし……」
何をどこまで話すべきか。
既に全てを誤魔化せる状況ではない。なら、美樹を信頼して真実を話すべき……だが、何もかもを打ち明けるわけにはいかない。
そうすれば、彼女は凪を非難するだろう。そして、力づくで止めようとする。
高津美樹はそういう『正しい人間』だ。
「フィリアは……迷子だったんだよ」
「迷子? 迷子ってどういうこと?」
凪は美樹に語る。
フィリアには住所が存在していないこと。本人も記憶を失っていること。わかっているのは、学園の生徒として転校してきたという事実のみだ、と。
「そんな……警察に連絡したほうが」
「ダメだ。住所がない人間っていうのが、どういう存在だか……お前だってわかるだろう?」
「不認知籍(アンノウン)……」
社会の全てが量子コンピュータで管理されている。だが、全ての人間が社会に適合できるわけではない。デバイスを通じた管理を望まない人々は、〈イデア〉から逃げるように生きている。
監視の目を逃れるために、〈イデア〉からの恩恵を受けることもない。住所がないということは、そういう法外の存在ということだ。
「でも……ならどうして、転校なんて」
「だから、おかしいんだって。きっと何か理由がある。きちんとフィリアの住所を見つけて、帰るべき場所に連れていかないと」
凪はフィリアへと目を向けた。二人の話についていけず、戸惑うような表情を浮かべていた彼女は、凪と目が合うと安心したようにニコリと笑った。
「お話おわった? ねぇ、ナギ。『たまてばこ』ってすごいんだよ! あけると、おじいさんになっちゃうんだって。顔が真っ白になっちゃうんだって!」
童話本を持ちながら、キラキラした目で凪を見つめるフィリア。美樹は二人の姿を見て、ホッとする。
「凪が他人に関心を持つなんて……何年ぶりかしらね」
「ん? なんか言ったか?」
「ううん、何でもないよ。はぁ、仕方がないな。フィリアさんのことは、学校にも内緒……私とウナギの秘密ってことにしてあげる。感謝するように!」
「ああ、助かるよ。ありがとう」
素直に礼を告げる凪を、美樹はまっすぐ見つめることができず視線を外らした。
「か、勘違いしないでよね。あくまでその子……フィリアさんのためだから。別に凪のために黙っているわけじゃないわ」
「わかってるよ、それでもありがとう」
美樹は何とか視線を戻そうとする。すると、目の前にフィリアの顔が近付いてきた。
「ありがとう? ありがとう!」
「どういたしまして……」
美樹は改めてフィリアの顔を見て、思う。なんて可愛いんだろうか、と。
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