第2話

何歩も何歩も歩いた正英はふと足を止めた。

どうして林檎飴を持っているのだろう、どうして焼きそばを持っているのだろう。どうしてお面をつけているのだろう、と。

振り返っても同じ道が続くだけで何も風景は変わらない。そしてふと正英は思った。


「会いたいなあ。」


すると風がぶわっとふいて目を閉じた正英名前に先ほどお面屋にいた女性が目の前に現れた。


「もう何十年と待ち続けました。」


オカメのお面の奥で女性はそう言った。

正英はお面の奥をじっと見つめた。


「時計もネクタイもアナタは捨ててしまったのね。」


そう言った女性にハッとした正英は首をさすり、

左手首を見た。だけど正英はどうして時計もネクタイも無いのか思い出せなかった。


「だけどたった1つ、指輪は捨てなかったのね。」


その言葉に正英は頷いた。


「どうしてだか、この指輪だけは手放せなかった。

段々忘れて行く中でこれだけは。」


お面の口元に手を当てた女性はクスリと笑った。

そこで正英は妻の名前を忘れた事に気がついた。

さっきまで会いたいと顔を浮かべたはずなのにと頭の中を巡らせた。


「私も旦那の名前を思い出せないの。もう40年年と待ち続けて。姿も変わってしまって、道行く人は私に見向きもしない。だけどアナタはカステラをくれた。どうしてだか心が踊った。」


正英はいつカステラを渡したかと首を捻らせた。


「この道を進めば記憶は無くなって行く。どんなに愛しくても後悔していても。そういう場所なの。」

「どうして足を止めたんだい?」


正英は歩み寄って聞いた。


「忘れたく無かったから。私が先立って悲しむ暇も与えてあげられなかったアナタを。そしてアナタにまたあって忘れて欲しく無かったから。」

「だけど俺はお前の名前も覚えていない。」

「いいの。アナタはカステラをくれて指輪を捨てなかったから。」


正英はふと冷めた焼きそばを女性に見せた。


「お祭りなんて何十年振りだろうな。」

「そうね、私もよ。」


お面をつけた互いの顔は見えなかったがお互い微笑んでいるのはわかった。

正英は続けた。


「妻の元に行きたい。だけど年もとって名前も忘れた俺なんか会いたかないだろうか。」

「私も、お互いゆっくり年老いた顔を合わせていればよかったのだけど若い時から止まった顔しかわからないアナタに急におばあちゃんな私は見せられないわ。」


なんとなく会話が噛み合っているようで噛み合っていない2人はいつしか手を取っていた。


「なあ、最後に何がしたい。俺はお前に何もしてやれなかった。」

「私はアナタとなら何でも何処へでも。」

「そうか。じゃあ歩こうか。」

「ええ。」


正英は歩き出した。女性の手を握って。

女性の下駄がからんからんとなるたびに正英は懐かしい日のことを思い出した様な気がしていた。


「すまなかった。」


正英が急にそう言った時、女性のお面の横から涙が伝った。指で拭き取った女性は言った。


「何に対して?」


正英は首を振った。

くすりと笑った女性が言った。


「もういいのよ、もう。」


2人はまた一本の何もない道を歩き始めた。

いつか全てを忘れると知っていながら、隣を歩く人がいると安心感を抱きながら。


「もし、来世であったら結婚してくれないかい。」


正英は真っ直ぐ遠くを見たまま女性の手を握り返した。女性は頷いて言った。


「もう一度私の名前を思い出したらね。」


正英は小さく笑った。

しばらく歩いて正英はポツリと言った。


「英子。」


女性は、いや英子ははいと、嬉しそうに答えた。

正英は小さく咳払いをした。

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