39

「お疲れさん」


 ぼーっと頬杖をついている私の目の前に、ほら、と、琥珀色の液体入りのグラスが差し出された。


 良い香り。

 クンクンと香りを嗅ぎ、ひとくち舐めると、口内の温度で揮発するアルコールに混ざった、スモーキーな甘い香りに癒やされる。


「シングルモルト!」

「よくわかったな」

「こんな良いお酒、どこに隠してたの?」

「寝室のクローゼット」

「あ、そ」


 どうりで私の酒を発掘できたわけだ。グラスを弄び、傾けるたび浅いグラスに纏わり付く液体の名残を感慨深く眺めた。


 嵐のような一日だった。


「お婆さん、無事で良かったな」

「うん。ありがとう……いろいろ」 


 叔母に翻弄され病院実家との往復。私の所業がバレて祖母と父には叱られるわ、尊との関係を叔母に謗られるわ、と、生涯忘れ得ぬ散々な結婚報告ではあったが、祖母の怪我が大事にいたらず、結婚についても結果的に喜んでもらえたから良かったのだが。 


「言いたい放題されたなぁ」


 声を上げて笑っているくせに、目は笑っていない。あの叔母に対峙して気を悪くしないわけはない。


「……ごめんなさい、迷惑かけて」

「なんだよそれ?」


 大変だったのはおまえのほうだろう、よく頑張ったな、と、労われたが、今後、あの恥ずかしい叔母との付き合いが、尊にまで及ぶのだと思うと、申しわけなさでいっぱいだ。


「気にするなよ。ああいう煩いのは、誰の身内にだってひとりくらいいるさ。家にだってタイプは違うがひとり……悪いな、いつも付き合わせて」


 あいつ、俺が結婚したからって浮かれ過ぎなんだよ、と、尊がため息をつく。


「それは……大丈夫だよ」


 毎週末に開催される、義父との饗宴。それは、日本全国から仕入れられた山海の珍味と地酒、さらに義姉お手製のデザートを、飲めや食えやと義父が酔い潰れるまで勧められもてなし尽くされる、嬉しいが怖ろしい宴。


 尊の家族との食事は賑やかで楽しい。義父が喜んでくれるのも嬉しい。酒も趣向を凝らした肴もデザートも、おいしい。非常においしい。だが、この頻度でこれが続けば……と、私の下腹が、すでに警告を発しているのも事実。

 やはり、運動しかないのだろうか。これは、目下の悩みである。


「まあ、あの叔母さんの話は、無茶苦茶ではあったが、すべてがでたらめかと言われたら、そうでもないと思う」

「うん?」

「家を継ぐ継がないの話とかさ」

「継ぐの継がないのって言われても、ウチは一般的なサラリーマンだから継ぐものなんて特にないよ?」

「そうでもないだろう? 後を継ぐ人間がいなけりゃ、家名も絶えるわけだし……土地家屋とか墓とか……」

「家名はそうだけど……、でも家やお墓のことって、名字が無くなったって関係ない問題だと思うけど?」

「まあな。でも、あの叔母さんには叔母さんなりの思い入れがあるのかも知れないだろう?」

「思い入れねぇ……。自分は出ちゃったくせに?」

「それはそうだが、だからこそ、将来実家が無くなる可能性に寂しさを感じるのかも知れないな」

「それって、すごい勝手な話」


 そう、ずいぶんと身勝手な話だ。叔母自身が嫁に出た頃には兄がいたし、先のことを考える必要も無かったのだろうが、だからっていま、人の結婚を邪魔する権利は無いはず。


「あれ?」


 叔母が嫁いだ相手は一人息子。その一人娘である真由美は嫁に……。


「どうした?」

「あ? なんでもない」


 要するに、いつものやつか。あの叔母は……。


「俺の家も昔、兄貴が継ぐ継がないでかなり揉めたぞ」

「それは、尊の家はウチと違って商売してるからでしょ」

「ああ。家名だけの問題なら、べつに揉めやしなかっただろうけどな。親父はやっぱり店を継いで欲しかったらしくてさ。兄貴はそのつもりがあったのかは知らないが、鮨職人になった。だが、義姉さんはパティシエでね。継ぐとなれば、義姉さんもいずれ仕事を辞めて家業に専念しなきゃならなくなるだろう? それで、兄貴が継がないって言いだしてさ」


 お義姉さん、パティシエだったんだ。それで、デザートがあんなに……。


「お義兄さんが?」

「うん。兄貴は義姉の夢を応援するってプロポーズしてたらしい。それで」

「へぇ……お義兄さん、格好良い」


 お義兄さん、男前だ、と、顔を思い浮かべ、ニヤけた瞬間に叩かれた。


「ぶたなくたっていいじゃない……」

「散々揉めたが、結局、子供ができたのを機に義姉が仕事を辞めて家に入ったわけ。いまじゃ和気藹々と楽しそうにやってるけど、義姉さん、当時は大変だっただろうな」

「うん……」

「まあ、兄貴が継いでくれて助かったよ。どのみち俺には無理だったからなぁ」

「尊が継ぐって話もあったの?」


 尊が鮨屋だなんて……びっくり。


「ああ? 俺? あるわけないだろう?」

「なんで?」

「料理は壊滅的だからな。誰も俺に期待なんかしねえよ」


 俺が自由気ままな次男で良かったな、と、尊が笑った。


::


 疲れた身体をふんわりと包み込む柔らかな感触。それでいて、適度な硬さを保ち自然な体勢で全身を支えてくれる。なんと気持ち良いのだろう。


 私もマットレスにはこだわる方だ。睡眠の質を高めるため寝心地を追求した結果、日本ではあまり知られていない海外メーカーのマットレスを愛用しているのだが、まさか尊も同じとは驚いた。

 しかも、同一メーカー最上クラスのクイーンサイズ。私のマットレスはランク下のダブルサイズ。これが経済力の差、と、いうものだろうか。これだから偉い人は。


 ひんやり滑らかなシーツを撫でつつ、瞼を閉じる。

 はあ、このマットレスに慣れたら家に帰れなくなりそう。あ、そうか、引っ越してくるからべつにいいのか。


「寝たか?」

「……寝た」


 背を向けたまま小さく答える。こいつ、まだしゃべる気か。今日の尊はなぜか、いつにも増しておしゃべりだ。せっかくいい感じに頭がぼーっとしてきているというに、まただ。


「なあ……ダメか?」

「ダメ」


 マットレスが軋んで尊の腕がお腹に絡まってくる。うなじにかかる息がくすぐったい。


「いいだろ?」

「ダメ、却下、もう寝る」

「そんなこと言うなよ。ちょっとだけ……」


 一日の終わりは結局こうなる。こいつだって大概疲れているだろうに、どうやら、人を寝かすつもりは無いらしい。


「ちょっとちょっとってちょっとも数重ねれば、ちっともちょっとじゃないんだよ? まったく! 誰のせいで基本設計が終わらないと思ってんのよ!」


 はぁっと大きく息を吐いて、掛け声とともに起き上がり明かりをつけると、サイドテーブル上のラップトップを膝に乗せた。尊も私の背に腕を回し肩に頭を乗せて画面を覗き込む。


「これで最後にするから。絶対! 約束する。で、思いついたんだけど、この画面の更新ファイルのフォルダを自動で最新順に並べ替えてさ……」

「だ、か、ら! 自動化はダメだって! 状況によって感覚的に使うものなんだから、自由度が必要なの。これは業務効率化アプリじゃないって何度言ったら……」

「……じゃあさ、フラグ立てるのは?」

「フラグ? うーん、ちょっと待って」


 ついさっきまでの眠気はどこへやら。さっさとケリをつけないとまた朝までコースになってしまう。

 そう、そんなふうにとの尊の指示どおりに、ポチポチとポインタを動かしキーボードを叩く。画面を見つめ手を動かしながら、ふと、ひとつの疑問が浮かんだ。


「ねえ、訊いていい?」

「うん? なに?」

「尊はさ、どうして離婚しなかったの?」

「知ってたのか?」

「うん。佳恵に聞いた」


 一回訊いてみたかった、最大の疑問。こいつは、ラスベガスでは結婚も離婚も簡単にできることを知っていたはずだ。もし知らなかったとしても、その気があれば調べてどうにかしただろうに、なぜ、ずっとこの婚姻関係を放置し続けていたのだろう。


「うーん、なんでかな?」

「なによ? 他人事みたいに」

「いや、考えたこと無かったからさ」

「そのままで困るって思わなかったの?」

「べつに? だって、おまえ以外の女と再婚するなんて、一度も思ったことないからさぁ……」

「なんで?」

「だって、おまえほど一緒にいておもしろい女、他にいないから」


 これは、褒め言葉なのだろうか。それとも。だが、わかる。私にとっても、尊ほどおもしろい男は、いない。


「うん。そうだね」

「だろう? だから、いままたこうして一緒に居るんだよ」


 これを不可抗力と言わずしてなんと言うのか。


 何の因果か再会し、こうしてまた、ごく自然にふたりの時間を過ごしている。


 縁とは摩訶不思議なものだ。

 再び尊と出会うことができなかったら、私は、間違いなく生涯独身。それこそ法的に既婚者である事実にすら気づかず、一生を終えていただろう。


 いま、私は幸せなのかも知れない、と、ちょっと思う。


「できた! これでどう?」

「OK! じゃ、これで明日午後一にミーティングだからな」


 それまでに企画書と一緒に纏めろと言われ、タイトなスケジュールにムッとしつつラップトップをパタンと閉じた。

 斜め下にある尊の顔が私を見上げて結果オーライだな、と、黒い笑みを浮かべる。その唇を発作的に抓った。


「★#$%?☆彡*@&!」






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