36
「歩夢!」
ひとり病院の正面玄関で降ろされ、駐車場へと走り去る車をぼーっと見送っていると、背後から私を呼ぶ声が聞こえた。振り返れば、数歩後ろで眉間に皺を寄せた父が。
「お父さん」
「仕事中だったんだろうに、抜け出してきたのか? それにしても、ずいぶん早く着いたな」
「うん。車で来たから」
「車?」
「あ、うん。それで? お婆ちゃんは?」
「お父さんもいまのバスで着いたばかりだから、まだわからないんだ。とにかく行こう」
父とともに病院内へ。正面玄関脇の総合案内所で教えられた整形外科の外来へ急ぐ。
午後の診療時間をとうに過ぎているためか、診察室前の廊下はひっそりと静まりかえっている。
どうせそんなことだろうとは思っていたが、一番近くにいて最初に到着しているはずの叔母の姿は、やはり無い。
外来受付で尋ねると、祖母は怪我の処置中とのこと。大丈夫ですよ心配いりません、もうすぐ終わりますから椅子にかけてお待ちくださいと和やかに言われた。
良かった。無事だった。
看護師の平静な態度から、祖母は大丈夫なのだと悟る。近くの長椅子に父と並んで腰を下ろすと同時に壁に背をもたれ、思わずふぅーっと大きくため息をついてしまった。
「歩夢? どうした?」
「うん。なんか……気が抜けた」
祖母の怪我の具合がどの程度のものなのか、実際に見ていないので、本当に安心しているわけではないのだが、緊急性が無いとわかっただけで、張り詰めていた気持ちが一気に緩む。
「ははは。そうだな」
父も同じだろう。ふたりで情けない笑みを交わしていると、早足の足音が聞こえ振り返った。
「尊」
「歩夢、お婆さんの容態は?」
「まだわかんないけど、大丈夫みたい。いま、処置中でもうすぐ終わるって」
「そうか」
私の笑顔にほっとしたのか笑みを浮かべた尊が、視線を上げて会釈をする様子に気づき振り返る。父が、怪訝そうな顔をしていた。
どうしよう。すっかり忘れていた。尊のことを、なんと説明すれば。
こうなることは、はじめから予想できたはずなのに、祖母のことでよほど動転していたのだなと、我ながら呆れるが、いまは、そんな場合ではない。
尊との関係をこの期に及んでごまかすつもりは毛頭無い。ただ、父と祖母には折を見てきちんと説明しようと考えていただけ。それが、いまこの状況で説明する羽目になるとは。
「歩夢? こちらの方は?」
「え……っと」
狼狽えている間に、キレイなよそ行き笑顔を作った尊が、口を開く。
「はじめまして。お義父さん。私は小林尊と申しまして、歩夢さんとは……」
「ちょ、ちょっと待って! 私が……」
とりあえずは尊の口を塞ごうと、大慌てで尊の腕を掴んだところで、ガラガラと引き戸の音が聞こえ、春子に支えられながら、たどたどしく松葉杖をつき歩く祖母が顔を出した。
「お婆ちゃん!」
「……歩夢? 正蔵?」
「お婆ちゃん、その足?」
祖母の右足は、ギプスで固定され包帯でぐるぐる巻きに。
慌てて数歩先の祖母に駆け寄り、まずは座って、と、転ばないように体を支え、自分が座っていた場所へ座らせた。
「どうしてこんな……」
父が眉間に皺を寄せ、祖母の足を睨みつけている。
「あー、ちょっと転んで捻挫しちゃってねぇ……」
「捻挫?」
「小母さん、それ、捻挫じゃないわよ! 剥離骨折だってお医者さんが言ったでしょう? 骨折よ! 骨折!」
「ええ? だって、捻挫のちょっと酷いのだってさっき……」
「それでも骨折は骨折です。まったく小母さんときたら」
「はいはい。春ちゃんは大げさねぇ。救急車なんて呼んじゃうから、みんなびっくりしてるじゃないの」
「大げさじゃないでしょう? ガッチャン! って外で大きな音がしたからびっくりして飛び出したら、玄関先に小母さんが転がってるじゃない! 真っ青な顔で苦しそうで……私もう心配で心配で」
「玄関先で倒れただって?」
父の声が険しい。
「違うのよ、正蔵。倒れたんじゃなくてね、ちょっと転んだだけなの」
「転んだ? 母さん……、いったい何をやったんだ?」
「何ってそれは……。あ、玄関の傍の木ね、枝が伸び過ぎたからちょっと切ろうと思ったの。それで、春ちゃんが来てくれてねぇ……って、まあいいじゃないのそんなことは。ね?」
「ちっとも良くないよ!」
都合の悪い部分はすべて省かれ、まったく説明になっていない。ヘラヘラと決まり悪そうにしている祖母に呆れる。
あの木は三メートルほどの高さがある。自分で切ろうとするなんて、無謀な。春子がいなかったらどうしていたのかと思うと、まったく恐ろしい。
「それで? そちらのイケメンさんはどちらさま?」
「へっ?」
ぽーっとする祖母の視線の先にある、和やかな顔。
まずい。矛先が、こちらへ戻ってきた。
「母さん!」
甲高い叫び声に視線を向ければ、大きな旅行用ラゲッジバッグを重そうに引きずる叔母が小走りでやって来て、祖母の前で停止する。
なにやっているの、この人。
「康子? どうしたのあんた?」
「ど、どうしたもこうしたもないわよ! 母さんが救急車で運ばれたって聞いてびっくりして大急ぎで……え?」
叔母は首を上下に振り、その剣幕に驚いている祖母の顔と足を見比べている。
「おまえ、いまごろ……。それに、なんなんだ? そのごたいそうな荷物は」
「私、家に寄って母さんの入院の支度を……」
「やっちゃん……。私、保険証持ってきてとは言ったけど」
「えっ? そうだった? 保険証? そんなの聞いてないわよ?」
春子が呆れてため息をついた。
「どういうことだ?」
「えー、だって、だって、母さんが大変だからって春ちゃんが言うから私……。そうでしょ? 春ちゃん!」
「そりゃあ、怪我して具合が悪いとは言ったけど……」
ようするに、いつものアレ。春子から電話を受けた叔母の耳には、祖母が救急車で運ばれた以外の言葉が、まったく届いていなかったのだ。
この叔母らしいと言ってしまえばそれまでだが。なんとも人騒がせな。
「まあまあ、もういいから。いつまでもここに居たって仕方がないし、帰りましょうよ」
「あ、うん。そうだね。春小母ちゃん、それ貸して。私、会計してくる。お薬もあるんでしょ?」
春子から書類のファイルを受け取りその場を離れようとしたとき、尊の手が伸びてきて、それをヒョイとひったくった。
「俺が先に行ってくる。おまえはお義父さんたちとゆっくりおいで」
「え? でも」
尊はニッコリ笑い、私の頭をくしゃっとかき混ぜると、唖然としている皆に向かって会釈をし、踵を返した。
遠ざかる尊の背をぽーっと眺めていた叔母がぼそっと呟く。
「ねえ歩夢、あの人……誰?」
矛先が、また、戻ってきてしまった。
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