35
「榎本、おまえじゃねえの?」
「俺じゃないっすよ。俺のはバイブにしてねぇ」
「なんだ榎本? 仕事中くらいバイブにするか電源落とせ! じゃあおまえか? ミケ」
「俺は、誰からも電話なんかかかってこないもん……あ、切れた」
皆が顔を見合わせる中、音が止む。だが、それもつかの間、またビービーと震える音が、電話の着信を示している。
と、なれば、残るは私しかいないことに。
「すみません。私かも」
平日の午後、こんな時間に電話をかけてくる相手なんていないはずなのにといぶかしく思いながら、急ぎ自分のデスク下キャビネットの引き出しからバッグを取り出す。と、同時に、着信音が止まった。
残された履歴の主は、叔母の康子だ。
「誰から?」
尊の問いに叔母からだと答えようとした瞬間、手の中の携帯電話がまた震えだす。
「あ……」
「いいよ、気にしないで出れば」
「いえ、でも仕事中だから」
「何度もかけてくるってことは、急ぎの用事があるんじゃないのか?」
急ぎだろうがなんだろうが、叔母の用事なんてどうせ、ろくでもないことに決まっているのだが。
すみませんと皆に頭を下げ、仕方なく通話ボタンを押し、少し離れた窓際へ移動した。
「歩夢! なんですぐに出ないのよ? 何回かけたと思ってるの?」
「叔母さん、いま仕事中だから。終わったらかけ直すよ」
「あんたこんなときになにのんきなこと言ってんの? 母さんが、母さんが大変なのよ! それなのにあんたったらちっとも電話に出ないし、母さん、母親のいないあんたが不憫だからって必死で育てたのに、あんた本当に冷たい子よね! それでも孫なの? え?」
離れていても聞こえるほど甲高い叫び声が、静かなオフィスに響く。
祖母にいったい何が起きたのか。叔母のこの慌てようは……。いや、引きずられてはダメ。落ち着け。
「叔母さん、落ち着いて。ただ大変だって言われても、何があったかちゃんと順序立てて説明してもらわなきゃわからないでしょう?」
「なに言ってんの? 母さんが救急車で病院に……。ねえ歩夢、どうしよう? ねえ、どうしよう? 母さんに何かあったら……」
叔母が縋り付くように泣き声を漏らした。
とりあえずはこの叔母から冷静にひとつずつ状況を聞き出すことが急務と、はやる気持ちを抑えるためにひとつ大きく息を吸って吐き、ゆっくり低い声で叔母を問い質す。
「叔母さん、私の質問に答えて。お婆ちゃんが運ばれた病院はどこ?」
「どこって? え? どこだっけ? あ、市民病院だったわそうそう、市民病院」
「わかった。市民病院ね? それで? お婆ちゃんになにがあったの?」
「え? 母さん? えっと、なんだっけ? なんだか言ってたけど難しくて叔母さんよくわかんないのよ」
この叔母はまったく。いつでもこんな調子だが、本当に肝心な時にもやはり、役に立たない。
「叔母さんもお婆ちゃんと一緒に病院に居るの?」
「え? 私? 違うのよ。さっき春ちゃんから電話もらって……。私はねえ、今日はお友だちと三人で駅前のホテルのランチバイキングに来てるのよ。それでね……」
叔母に連絡したのは、隣に住む叔母の同級生の春子小母さんか。
「春小母ちゃんは、お婆ちゃんと一緒なのね?」
「え? ああ、春ちゃんが救急車呼んでくれたんだって。それで一緒に病院へね……」
なるほどそういうこと。父が仕事の平日日中は、実家で祖母がひとりきりのため、隣家の春子が常々祖母を気遣ってくれている。
この叔母よりも隣人の春子のほうがよほど信頼できるのは、なんとも情けない話ではあるが、その春子が祖母に付き添ってくれていると聞き、少しだけ安堵した。
「わかった。お父さんには連絡したの?」
「兄さん? もちろんしたわよ! したけど、電話に出ないのよ。兄さんったら肝心なときになにやってんのかしら?」
「わかった。お父さんには私から連絡するから。小母さんもすぐに病院に行くんだよね?」
「あたりまえでしょう? なに言ってんの? だいたいあんたはねえ」
事情はわかった。もうこのひとの無駄話に、付き合っている必要は無い。
「私もいますぐ病院へ向かうから。切るね」
強引に電話を切った。辺りが静かになったとたん、携帯電話を握りしめている自分の手が震えているのに気づく。
仕事はどうしよう、早く病院へ行かなければ。ぼんやり考えていると、背後から温かい腕に肩を抱かれた。
「大丈夫か?」
「……うん」
「行くぞ」
尊が私の腕をつかんだ。
「えっ? どこへ?」
「病院だろ。一緒に行く」
「尊も? だって、仕事は?」
「ひとりで行かせられるわけがないだろう?」
「で、でも……」
「いいから。宗田! あとは頼む」
「ああ、わかってる。こっちは気にしないで早く行け」
宗田に指示を出す尊の冷静な声が耳に響く。動向を窺うようにこちらを見つめていた若手ふたりも、宗田の言葉に無言で頷く。
「車取ってくるから、下で待ってろ」
部屋を出て行く尊の後ろ姿を唖然と見送る私に、皆が大丈夫だから心配するな早く追いかけろと励ましてくれる。握りしめていた携帯電話をバッグの中に収めると、すみません行ってきます、とオフィスを出た。
正面玄関で尊を待っている間に父に電話をし、叔母から聞いた内容を告げる。
叔母の電話が父に繋がらなかった理由は簡単。やはり、どうせろくな用事ではないだろうと、通話を拒否していたという。
気持ちはよくわかる。私だって同じことを考えた。
私も病院へ行く旨を伝えると、父もこれからすぐに向かうとの言葉とともに、康子の言うことは当てにならない、ばあさんは絶対に大丈夫だから安心しろと慰められた。
車に乗り込み、道案内をカーナビに任せ、尊の運転で病院へ急ぐ。
時折駆けられる言葉に短く返事をしつつも、どこか上の空で現実感が無い。まるで、夢の中をふわふわと漂っている気がした。
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