30
一心不乱に滑る指先。カタカタカタカタとキーボードを叩く音が、静かなオフィスに響く。
私はいま、すこぶる機嫌が悪い。
モニタの隙間からチラと目線を向ければ、ソファに座りタブレットに見入っている元凶、尊の憎たらしい横顔が見える。すべては、こいつのせいだ。
開発への移動、つまり、小林統括のアシスタント初日、連れてこられた先は、開発部ではなくこいつのオフィス。名目こいつのアシスタントなのだから、それは、まあいい。
だが、どういうわけか私は、こいつのデスクに座りこいつのマシンを使いこいつが設計したプログラムを書かされている。
のんきにコーヒーを啜らせるために、あんたの仕事を肩代わりするのが、アシスタントなのか。納得がいかない。
『これ、新しくウチで開発する個人ユーザー向けのアプリ。どう? ちょっとおもしろそうだろう?』
『ライフスタイルマネージメント? スケジュール、お金、……へえ、健康管理までトータルなんだ? うん。なんかおもしろそうだね』
『俺がやろうと思ってたんだが、おまえ、ざっと組んでみないか? 叩き台だからとりあえず動けばいいから。それで、どのくらいでできる? あー、おまえならそうだな、一週間もあれば余裕だろ』
おもしろそうだねなんて乗った私がバカでした。
できそこないのプロジェクトマネージャーみたいなセリフを吐きやがって。なにが、ざっとだ。なにが、とりあえず動けばだ。なにが、一週間もあれば余裕だ。こんな複雑なものを一週間で組めってあなた、鬼ですか。いや、大魔王でした。
そして、極めつけはやはり、食い物の恨み。
昨日、尊が出かけたあとのこと。佳恵とのおしゃべりが一段落つき、食器を片付けにキッチンへ立つと、台湾から自分のためだけに持ち帰った大切な大切な大切な高級カラスミが、流し台の上にポツンと置かれていたのだ。
私が無意識に冷蔵庫から取り出して、ここへ置くわけはなく、もちろん、カラスミが冷蔵庫の中からひとりで歩いて出てくるなんてありえない。
つまり、犯人は私以外のもうひとり。
これは、夕飯時にカラスミを食べさせろとの意思表示。
すでに半解凍状態のカラスミを手に取り、諦めの境地でとりあえずそれを冷蔵庫にしまおうと扉を開けるとそこには。
さらなる悲劇が、待ち受けていた。
「嘘だろ……」
庫内中央にゴロンと横たわっていたのは、趣味部屋のクローゼットの奥に、ひっそりと隠し持っていた秘蔵のシャブリ。
あの野郎、いつの間に。
あいつはただの大魔王じゃなくて『家捜し大魔王』だ。
シャブリは冷やし過ぎるとせっかくの飲み頃を逸してしまう。
いまさらではあるが、冷蔵庫よりは多少温度の高い野菜室のほうがまだマシだろうと、ボトルを移動。
そして、高かったのにと悔し泣き半分、大根を買いにスーパーマーケットへ向かう道すがら思う。鮨の元をここまでしっかり取られるとは、報復にかけるあいつの執念は、怖ろしい。
もちろん、カラスミもシャブリも、その大半があいつの胃袋に収まったのは、言うまでもない。
「その様子だと、一週間もかからずに終わりそうだな」
嬉しそうな声が耳に届く。こいつと一緒に居ると、自分の性格まで黒く染まりそうで恐ろしい。
怒りのあまりカタカタとキーを打つ指がさらに力強く滑らかにスピードアップした。
遠くで尊の高笑いが聞こえた気がするが、きっと空耳だろう。
::
残業無し定時退社の約束は、いまのところ守られている。だが、もう帰っていいぞとの言葉に続き発せられる『今日はどっちだ?』に、頭が痛い。
今夜もどちらかの家で、ふたり一緒に過ごすのは決定事項。
人間、諦めが肝心とは、誰の言葉だっただろう。
尊の家へ行っても自分のものはなにもないし、明日も仕事。じゃあウチで、と、力なく言い捨て、オフィスをあとにする。
ホールでエレベーターを待っていると、玲子専用着信音が高らかに鳴った。
着信音の使い分けといってもじつは、毎度唐突に厄介ごとを持ち込んでくる玲子に限った話。これは、最低限の自己防衛。あまり役には立たないが、心の準備程度にはなる。
「玲子? どうしたの?」
どうしたのかなんて、本当は訊きたくもないが。
「あゆむぅ! 仕事終わった?」
「終わったよ。これから帰るとこ」
「そっかあ、ちょうど良かった! あたしね、いま、下に居るの。正面玄関だよ。すぐ下りてきて!」
玲子さん、ついに、会社にまで進出して待ち伏せですか。
今度はどんなトラブルだろう。到着したエレベーターのドアがスーッと開いたが、体が乗りたくないと抵抗する。
後退る足を無理矢理前に出し、エレベーターに乗り込み一階へ下りた。人の流れに紛れて見つからなければいいのにと、背の高い男性の後ろを選んで歩く。だが、正面玄関を出てすぐのところに、こちら方向をキョロキョロしている玲子を発見。
彼女の隣、少し離れた所ではあるが誰かと一緒のよう。後ろ姿だが、遠目でもわかる。あれは隼人ではない。誰だ。見知らぬ男性と一緒に居るなんて、悪い予感しかしない。
「あゆむぅ−」
見つけなくていいのに。玲子が大きく手を振りながら全力で駆けてきた。なんだあれはとばかりにこちらを一瞥する周囲の目が痛い。
「どうしたの? また隼人と喧嘩したの?」
「やだぁ、隼人とは仲良しだよぉ。いつも喧嘩ばっかりしてるわけじゃないもん」
「だったら、なによ? わざわざ会社まで来るなんて」
「うん。今日はね、歩夢に会いたいってひと、連れてきてあげたの」
「私に会いたいひと?」
玲子の指さす方向を見ると、さっきまで背を向けていた男性がこちらを向いた。この人は。
「歩夢」
「安田……さん?」
どうして。
それは、三年以上前に記憶から消去した、二度と思い出したくもない男だった。
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