28

 尊と私の関係を問い質しに我が家へ乗り込んできた佳恵はいま、目の前で笑い転げている。それもそのはず。尊のこの出で立ちを一目見れば、きっと誰だって笑う。


 昨夜から居座っている尊には、着替えが無い。だから、ラスベガス土産に購入した身長百七十センチメートル痩せ型の私愛用の部屋着を提供した。

 メンズXLサイズのTシャツと、同じくLサイズの短パンジャージ。色は、どちらもかわいらしい桃色。洗濯を繰り返し、適度にクタクタになった柔らかな風合いは、着心地抜群。どうやら尊も気に入ってくれたらしい。


 もちろん、長くゴツゴツした素の手足は晒され、鑑賞放題だ。


 三年前もいまも、寛ぐ尊はこんな感じ。意識改革でもしてお洒落になったのかと思ったが、どうやら中身は変わっていなかったようで、ここまでかよ、と、私の戸惑いをよそに、まるっきりの無頓着ぶりを見せてくれた。


 なにはともあれ、尊のこの姿は、私にとってはなんてことのないものなのだが、仕事場での尊以外を知らない佳恵には、さぞかし奇異に映るだろう。


「なあ歩夢、砂糖どこだ?」

「お砂糖? えー、三人ともブラックだから、いらないよー」


 ツボにハマり止まらなくなった笑いを、大きく息をして無理矢理止めようと試みるたび、クックッと引き攣った声を出している佳恵が、顔を真っ赤にしながら手招きする。

 身を乗り出し、顔を近づけると、チラチラと目だけでコーヒーを準備している尊を振り返りつつ、耳打ちしてきた。


「ねえ、あの人、間違いなくあの小林さんだよね? 小林さんの顔した別人じゃないよね?」

「なにそれ?」

「だって、なんなのあの格好? あれ、あんたの部屋着……、しかもなんで桃色?」

「仕方ないでしょ? 大きいサイズみんな洗濯しちゃっててさ、着せられるもんあれしか無かったんだわ」


 と、これは、もちろん、嘘。


 じつはこれ、桃色ずくめの小林統括を目の当たりにすれば、さすがの佳恵でも気が逸れて、追及の手が少しは緩むだろうとの、苦し紛れに思いついた私の策略である。


「着替えが無かったから借りたんだが、そんなに変か?」


 いつの間にか佳恵の真後ろに立つ尊が、話に割り込んできた。その声に驚いた佳恵が、ビクッと首を竦める。

 尊はすまし顔で佳恵の前にコーヒーカップを置き、固まっている佳恵の顔をわざわざ覗き込むようにして、冷めないうちにどうぞと、愛想を振りまく。そして、私と自分のカップ、クッキーの皿を並べ終わると、トレイを床に置き、私の隣へ座った。


「いえ、べつに……、変じゃないですけど、あんまりいつもと違うから、驚いちゃって」


 笑いを怺え肩で息をする佳恵が、正面に座った尊をしげしげと眺めている。その様子と尊の平静さのギャップが、たまらなく笑える。


「ああ、いつものアレね」


 尊は不服そうな顔をして、大げさにため息をつき、ベッドに背中を預けた。


 そういえばそうだよね。


 言われてみれば、私も不思議に思う。私の知っている以前の尊は、ちっともお洒落な人ではなかったのに、なぜ、別人のごとくキレイになってしまったのだろう。私も改めて、まじまじと尊の顔を見つめた。


「いつものアレは……司だ」

「司? 司叔父?」

「社長がなに?」

「歩夢、おまえは、そもそも俺が、着る物なんかに興味無いの知ってるだろう?」

「うん」

「いまの会社立ち上げたときに、おまえのその格好じゃ客が逃げるって司に散々ダメだしされたんだよ。あいつ、すげぇしつこくて、俺の顔見るたびにネチネチネチネチ言ってくるの。それで仕方なく俺が折れて、会社ではそれなりの格好するようになったわけ」

「へぇー、そんなことが……」

「ネチネチネチネチ……司叔父ならやりそう」


 あいつは口こそ柔らかいが、負けず嫌いだし執念深くて困ると愚痴る尊の言葉に耳を傾けながら、エレベーターで見た、あの、いかにも切れ者っぽく隙の無いスーツ姿を思い出していた。


「ねえ、だったら、あのときは? ラスベガスで全然違ったのはなんで?」

「ラスベガス? ああ、あのときは休暇だったからな。会社じゃ司が煩いから仕方ないけど、休暇中くらい好きな格好してたって、べつにいいだろう?」

「まあね……」


 なるほど。それで私が会った尊は、ヨレヨレの無精髭だったのか。


「そういえば、おまえ、俺に気づかなかったよな?」

「へっ?」

「へっ? じゃないだろ? 俺の見た目がちょっと違うくらいで、三年前のこと持ち出すまで俺がわからないとはなぁ……」


 冷たいヤツだと恨みがましく睨まれた。話の矛先を突然こっちに向けないでほしい。


「だ、だって。しょうがないでしょう? ちょっとどころじゃないよ? 変わり過ぎだよ!」

「そうか? そんなに変わったか?」

「うん。まるで、ビフォーアフター」


 にやっと意地悪げに笑ってみせると、「それ言い過ぎ」と、額を叩かれた。


「いったぁ! ったくもう……ぶたなくたっていいじゃない」


 おもしろそうに笑うのが腹立たしくて、額に手を当て膨れる。


「俺は、エレベーターでひと目見た時、すぐおまえに気づいたぞ。歩夢は、きれいになったな」


 肌はすべすべ髪もつやつや、目の下のクマも無くなって、すっかりきれいになったなと、私の頬に手を添え親指で頬を撫で、目を細める尊を見つめながら思う。


 それは、違う。


 私のそれは、きれいになったなっていないの問題ではなく、単に、あの頃の荒れた生活から脱却し、規則正しく健康的な暮らしをしているからというだけにすぎない。


「それ、私のおかげだからね」


 佳恵がローテーブルに両肘をついて顎を乗せたまま、ニヤニヤとおもしろそうに私たちを眺めている。


 しまった。佳恵の存在を忘れていた。


 慌てて尊の手を避けようと仰け反るより早く、顔が迫りチュッと音を立てて、唇を奪われた。


「ちょっと! やだ! なにやって……」

「さて、もういいだろ? 俺、出かけてくるわ」

「えっ? でも」


 肝心な話はこれからなのにこいつ、逃げる気だ。あとはそっちで適当にやってくれと、顔に書いてある。でも、いまいなくなられたら、私の策略が。


「会社で片付けたい仕事があるんだよ。夕方には戻ってくるから、メシよろしく。冷蔵庫に隠し持ってるうまそうなもの食わせてくれるんだろ?」

「……!……」


 仕事が素早過ぎる。良い夫を気取ってコーヒーを入れているだけかと思ったら、冷蔵庫までチェック済みか。それにしても。

 秘蔵の珍味までをも狙うとは、まったくもって不届き千万。鮨の仇は珍味で返す、か。食い物の恨みは、やはり怖ろしい。


 血が上った私の頭をぐしゃっと撫でた尊は、至近距離でニヤリといつもの黒い笑みを浮かべると、立ち上がった。

 じゃあまた会社でね、と、佳恵に軽く言葉を投げ、玄関に向かって歩く尊をぼーっと目で追っていた私は、はたと気づく。


「あっ! 待ってよ! その服!」


 振り返った尊の目が『え? ダメ?』と問う。『当たり前だ着替えろ!』と、睨みつけると『やっぱりか』と小さく息を吐き、クローゼットのある趣味部屋へすごすごと入っていった。


 まったく。油断も隙もあったもんじゃない。と、呆れていると横槍が入る。


「いまじゃそうやって呆れた顔してるけど、誰があんたに常識をたたき込んだと思ってるのよ?」


 耳が痛い。佳恵さんがいなければ、私もあのスタイルで、平然と外を歩いていましたっけね。


「それにしても、驚いたあ。まさか小林さんにあんな一面があったとはね。もっとクールなひとだと思ってたわ」


 顔を近づけた佳恵がコソコソと言う。


「……珍しいモノが見られて良かったんじゃない?」


 私だってまさか、人前でキスされるとは思ってもみませんでしたよ。


「まったく、あんたは……」





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