墨に近づけば黒くなる。

24

 前回の食事は、牛丼屋だった。だから、今回もてっきり回るものだとばかり思っていた鮨屋はなんと、予想外。


 みどり鮨。


 そこは、知る人ぞ知る江戸前鮨の名店。毎日市場から仕入れる選りすぐりの一品と、契約漁協から直接仕入れる新鮮な魚介。

 こだわりの鮨を握る大将はその昔、座敷を設えた超高級店で修行を積んだ、折り紙付きの腕前の持ち主で、その味を求め、遠くは海外から、果ては各界の著名人までもが、お忍びで訪れることもあるという。

 もちろん、メニューも無ければ値札も無い、庶民にはとうてい手の届かない憧れの店だ。


 お互いを理解し合おうなどと言いながら、こんなオソロシイ店に連れてきて鮨を振る舞うなんて、変。絶対に、何かを企んでいるに違いない。

 やはりここは、油断をせずに気を引き締めて、あわよくば食い逃げだと心に決めた。


 まだ開店前なのか、のれんを下ろしている店の引き戸を、慣れた様子でガラガラと開け、無遠慮に奥へと進んでいくそのあとを追う。そのまま一番奥のカウンターに腰を下ろした尊に倣い、私も遠慮がちに隣へ座った。

 ほんのりと酢の香り漂う落ち着いた店内には、お客さんの姿はまだ無い。勝手に入ってしまって、大丈夫なのだろうか。


「なんでも好きなもん、食っていいからな」


 半月盆に箸と小皿が設えられた美しい無垢檜のカウンター、その後ろ側には、同じく無垢材のテーブルが三席。

 ぼーっと店内を見回している私に尊が声をかける。いつの間に運ばれてきたのか、目の前にはおしぼりが鎮座していた。


 なんでも好きなものをと言われ、頭に浮かぶのはやはり、あの夢。食べ損なった、あのウニだ。

 この際だ。思いっきり食べまくってやる。心の中で舌舐りをした。


「よぉ、尊! 久しぶりだな」


 奥の厨房からひょっこりと顔を出した大将と呼ぶにはまだ若い男性は、年の頃、四十くらいだろうか。くしゃっと笑う笑顔がかわいい目尻の皺がご愛敬の、なかなか良い男っぷり。


「兄貴! 居たのか」

「居たのかってなんだよ? ちっとも顔出さねえから、親父、機嫌悪いぞ」

「仕方ねえだろ? 忙しいんだから」

「忙しいったってさあ、近くじゃねえか。メシぐらい食いに来いよ」

「だからこうやって来てんだろーが?」

「ったくよ、忙しい忙しいって……って、あ? 女連れかよ? 珍しいこともあるもんだな。で、どちらさん?」

「俺の嫁」

「ああ? 嫁だあ? おまえ、いつ結婚したんだよ? え? って、まさか……、いつだったか、おまえが捨てられたアレじゃねえよな?」

「誰が捨てられてんだよ? 人聞きわりい」


 意味不明。繰り広げられているこの親しげな会話は、いったいなんなのだ。呆気にとられていると、尊が兄貴と呼ぶ板さんが、私を凝視している。


「お嬢ちゃん、あんた、ホントにこいつの嫁さん?」

「おい、話はあとだ。腹減ってんだから先に食わせろ。とりあえずいつもの二人前な。あとは、そうだな、様子見て適当に握ってやってくれ」


 板さんはしっかりと聞き取れる小さな声で、たまに来たかと思えば開店前から人をこき使いやがってと独り言ち、尊を一瞥して舌打ちしたあと、私に向かってニッコリと満面の笑みを浮かべた。


「お嬢ちゃん、なんでも好きなもの言ってね」


 その言葉に目の前のネタ箱をチラ見する。その姿を確認はしたが、はい、ではウニくださいと、いきなりお願いするのは図々しくて気が引けるので、ありがとうございますと、笑みを作り返した。


 板さんが、鮮やかな所作でネタを準備していく様子をうっとりと眺めていると、尊が私の耳元で「ここは鮨も良いが、良い酒も揃えてるぞ」と、ささやく。

 その声に体が勝手に反応し、ゴクリと唾を飲み込んだ。


 聞こえたのかどうかは知らないが、背後から出てきた和服の女性が私に向かって和やかに微笑み、笑みを返すと一合枡に入った日本酒のグラスをそっと置く。

 酒は外側の升にまで溢れんばかり。ニヤリと笑った尊が顎をしゃくって私に飲めと促す。


 零さないようそっと舐めると、磨き抜かれた米の芳醇な香りがふわりと鼻に抜け、まろみのあるその深い味わいに、思わず笑みが零れた。


「うまいだろう? これは、八海山の純米原酒だよ」

「うん」


 酒は、確かにうまい。カウンターに頬杖をつき、満面の笑みで頷く私を見ている尊は、満足そう。


 だが、なんだろうこの違和感。知らないところで、何かが起きている気がする。


 次に供されたのは、美しく盛り付けられたお造り。尊が小皿に醤油を差し、小首を傾げて食べろと言う。

 白身魚は夏が旬のスズキ。山葵を乗せて端に醤油をちょっと付け口に含むと、淡泊な甘みが広がった。これは、酒が進みそうだ。堪能していくうち、黒板の上に次々と手を尽くされた新鮮な魚介が並べられていく。


「お嬢ちゃん、付き合わせちゃって悪いな。こいつ、鮨屋の息子のくせに、酢飯食えねえんだ。笑っちまうだろ?」


 鮨屋の息子。


 ここが鮨屋で、誰が鮨屋の息子だと合点がいったとたん、酒の旨さもお作りの味も、衝撃で一瞬にして吹っ飛んだ。


「おい兄貴! 早々にバラしてんじゃねえよ」

「お、おにいさん?」


 目を瞬かせながら、板さんと尊の顔を交互に見る。

 確かに、似ている。これは、絶対に他人の空似なんかじゃない。


「そうだよ。俺はこいつの兄貴で、名前はさとる。よろしくね、歩夢ちゃん」


 バッチリとウインクまでされ、大慌てで挨拶をした。


「ひとの嫁に色目使ってんじゃねえ。なあ、親父は?」

「親父? 寄り合いだから当分帰ってこねえよ」


 なんてこった。ここはつまり、もしかして、いや、もしかしなくても尊の実家。


 ようするにこれは、騙し討ち。


 冷酒を舐めながら私の顔を覗き込み、ニヤニヤしている尊は、慌てる様子を楽しんでいる。横目で睨み付けると、微かに目が踊った。


 やられっぱなしは、性に合わないんだよ、尊くん。


 こうなったら、食ってやる。食い物の恨みは食い物で晴らすのが鉄則だ。開き直った歩夢様の破壊力に吠え面かくなよ、と、内心ほくそ笑み、ゆっくりと顔を上げ、満面の笑みをたたえておもむろに口を開く。


「お義兄さん、ウニ、握ってくださいますか?」

「かわいい義妹いもうとのリクエストなら、なんなりと」


 お義兄さんは、尊の表情を一瞥したあと私を見つめ、ニヤリと黒い笑みを浮かべた。兄弟そっくり。やはりこの人、悟さんは、尊のお兄さんだ。


 私も横目で尊をあざ笑う。

 どうだ。私の笑みも、十分、黒いだろう。


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