23

 雲の上の上司の采配に直接文句を言うとは、一介の平社員にはとうてい無理なこと。こういうところ、佳恵はやはり『お嬢』だ。

 公私混同もいいところだが、私がこの会社に入れたのもそのおかげなので、言葉が無い。


 尊は私の普段も過去も知らないし、佳恵も尊と私の関係を知らない。そのふたりがぶつかって、下手なことを暴露し合わなければいいがと、そればかりが気になる。だが、オフィスのドアを開き、引きずり込まれてしまえばもう、あとが無かった。


「小林さん、お話があるんですが、お時間いいですか?」


 都合を訊いているようでいて有無を言わさぬその態度。

 私はできる限り小さくなって、私より背の低い佳恵の後ろに気持ちだけ隠れてみる。


 モニタの向こうで顔を上げた尊が、私をジロリと一瞥したあと、佳恵にキレイな作り笑顔を向け、立ち上がった。


「どうしたの? 何かあった?」

「どうしたのじゃないですよ。この子に倉庫番をさせるだなんて、どういうつもり……」


 ソファに腰掛け足を組みながら「座れば?」と、尊が言う。逃げるのを見越して私を掴んだ腕を離さない佳恵が、腰を下ろすと同時に私を引っ張った。佳恵の隣に転がると、尊が五ミリ程、左側の口角を上げる。


 憎らしい。狼狽えている私が、そんなにおもしろいか。


「それで? 関口さん。少しは反省したのかな?」


 この口の利き方。ニヤリとイヤラシイ笑みを浮かべての皮肉っぽい物言いに、佳恵の顔色が変わるのが、見なくてもわかる。


「反省? するわけないでしょう? この子にとっちゃ、倉庫はてんご……いったぁ!」


 マズい。とっさに佳恵の二の腕を抓った。


「ちょっと歩夢! 痛いじゃない! いきなりなにすんのよ?」


 それを言ってはいけないとの意味を込め、目で合図を送ってみたが、睨み返されただけで役に立たず。


「おまえたち、なにやってるの?」


 挙動不審の私たちふたりを、尊がおもしろそうに眺めている。

 やはり、佳恵にしゃべらせては危険。なんとかしてここから立ち去らなければならない。


「もうしわけありません。反省してます。してますが、きっとまだ足りないので倉庫に戻らせていただきます。お仕事中、お邪魔して申しわけありませんでした。そんなわけで、佳恵! 私、仕事に戻るから。ね? 行こう?」


 一気にまくし立てて強引に立ち上がる。「ちょっと、なんなのよ? 待ちなさいよ!」と抵抗する佳恵を引きずり出した。

 パタンとドアを閉めると同時に佳恵が叫ぶ。


「歩夢! あんたなに? まだなんにも話してないじゃない! ひとがせっかく……」


 顔の前で手を合わせ、佳恵を拝んだ。


「ごめん! でも、やっぱりいいよ」

「でもそれじゃあ、あんたのためにならない……」

「言いたいことは、わかってるよ。でも、私もこれからどうしたらいいのか、自分で少し考えたいんだ。だから、ほんっと、ごめん。佳恵の気持ちは本当にありがたいんだけど、もう少しこのまま、倉庫に居させてくれない?」

「歩夢……」


 考えなければならないと思っているのは、本当。だが、まるっきり八方塞がりなのも、本当。もう、ため息しか出てこない。



 頭を整理しよう。


 まずは、仕事。


 たしかに、ここ資料倉庫は天国だが、定年までここで気ままに過ごせるなんてオイシイ話はあるわけがないのくらい、わかっている。

 いずれは異動することになるが、もちろん尊は絶対に折れないから、元の職場へは戻れない。つまり、異動の先は、開発しかないのだ。


 万が一そうなったら、退職してしまうのもひとつの手。辞めたところで仕事も貯蓄もあり、当座、生活に困ることは無い。


 だがその場合、大きな問題がひとつ。尊だ。


 あいつとの関係は、いとも簡単に三年前に戻った。

 当たり前だ。お互いの気持ちはあの頃と変わっていない。私だってただ、忘れた振りをしていただけ。正直、それは、認めざるを得ない。


 しかし、おひとりさまを謳歌することだけを目標に邁進してきた私が、突然方向転換しようにも、そう簡単に切り替えなんてできるものではない。

 だからといって、ふたりが結婚しているのは歴然とした事実。いまさら、別れる別れないの問題でもなし。


「歩夢……」


 突然、肩を掴まれ、手にしていた資料がバサバサと音を立てて床に落ちる。顔を上げる間もなく、抱きしめられた。


「ちょっ……」

「歩夢……ごめん」

「ちょっとなに? どうしたの?」

「ごめん。俺、知らなくて。悪かった」


 知らなかったとの言葉に、ピンときた。佳恵だ。あの女、絶対によけいなことをしゃべっている。


「佳恵が何か言ったのね?」

「ああ、聞いた。おまえが開発を嫌がる理由……。それと」

「それと?」

「おまえにとってここは、天国らしいな?」


 抱きしめていた腕を緩めて腰に回し、私の顔を覗き込むその瞳が、いかにも怪しげな笑みを浮かべている。


 終わった。すべてが、終わった。

 どうするか……って、ここは、開き直るしかない。


「そうよ? だからなに?」

「だから? そうだな、だから、俺が反省した。今回のことは、一方的にコトを進めようとした俺が悪い」

「……尊?」

「俺たちはお互い、いい大人だ。それぞれの都合も生活もあるから、気持ちだけじゃどうにもならないことがわかっているのに、何も話し合おうとしてなかった。圧倒的にコミュニケーション不足だ。そうだろう?」

「……うん」

「三年前とやっと再会できたいまを合わせても、ふたりで居る時間はまだごくわずかだ。お互いのことなんて何も知らないようなもんだから、俺もおまえも、知る努力をしなきゃな」

「…………」


 この人だって、バカじゃない。わかっているんだ。私が思うのと同じことを、ちゃんと考えている。


 肩に頭を預け首筋に顔を埋めると、尊の匂いに安心する。私の頭を撫でる大きくて暖かいその手のぬくもりが心地良くて、つい甘えたくなる。


「だから……、そうだな。手始めに、鮨食いに行くか?」

「……はぁ?」


 顔を上げたその先にあるのは、黒い笑み。

 コミュニケーション不足を補うのと鮨は、どう繋がるのだ。


 やはり、こいつの考えていることは、さっぱりわかりません。




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