19
外堀を埋められた感は否めない。
もともと、田中先輩にも打診されていた異動話だ。今回のことで、総務に居座る道は、完全に絶たれてしまった。
この倉庫から出ていくとき、唯一の行き先は、開発部。
尊と再会してしまった以上、遅かれ早かれ、いずれはこうなっていた……と。
もう、逃げられないな。
「まあ、いいや。だったら、ここに居座ってやる!」
小さなデスクに座り、私はうーんと思いっきり伸びをした。
もっとも、居座るもなにも、私にとってここほど快適な場所はない。
書類倉庫。
整然と書類だけが並ぶ、清々しい空間。会社に居ながらにして、煩わしい人間関係から解放される、まさに、私にとっては天国。
書類倉庫の仕事は、毎朝の掃除以外に、たまに上から運ばれて来る書類の整理と、持ち出し返却のチェック。それも、せいぜい日に数件のみ。あとは、特にすることもなく、ただただ一日中ひとりで番人に徹するだけと、暇なことこの上ない。
もちろん、定時上がりで、残業も一切無し。時間が来れば、さっさと帰宅できる。
一般的には、こんな閑職に追いやられたら、人生詰んだと悲嘆にくれるだろうが、私は違う。
日がな一日ほとんど誰に会うこともなく、好きに時間を使いながら収入を得られるこんな都合のいい仕事は、世の中どこを探したってあるわけがない。なんなら、定年までずっとここにいたいくらいだ。
ずる賢いつもりのあいつは、そんなこととはつゆ知らず、ここへ閉じ込めれば懲りて泣きついてくるだろう、そうすれば、公私ともに逆らわず、おとなしくなるとでも踏んだに違いない。
「尊も甘いね。私のこと、なーんにも知らないんだから」
あ、でも、当然か。私だって、あいつのことなんて、何も知らない。
結婚だってそう。結婚とは、イコール生活。お互いいい大人で、それぞれ確立した生活があるのだから、そんなに簡単にはいかない。いくら三年前に挙げた結婚式が正式なものであったとしても、他人同然のふたりが、惚れた腫れただけでどうにかなるものではない。
まあ、いい。そんなこと、いまはどうだって。
「天国だあっ! わっはははははは!」
とりあえずこの状況が楽し過ぎて、笑いが止まらない。
「さて、ちょっと探検でもするかな」
今日はどうせ暇でやることなんて何も無いのだからと、資料の棚をチェック。何かおもしろそうなもの、あるかな。
資料棚の間を歩き回り、背表紙を指で撫で、時折ファイルをパラパラめくりながら、順に見ていく。
ファイルの背表紙には、IDが振られ、わかりやすく整理されている。古いファイルはまだわかるが、新しいものにまでこんなに手をかけて整理するくらいなら、全部電子化してサーバに入れてしまえばいいものを、と、思ったが、途中でおもしろいことに気づいた。
この倉庫はいつも、厳重に施錠されている。入退室やファイルの持ち出しと返却のチェックがかなり厳重なのを加味すると、たぶんこれらのファイルはほぼすべて、すでに電子化されているだろう。
ただ、二重三重のバックアップの意味合いと、電子化によりもたらされる不便を回避するために、こうしてここに保存されているのだ。
事実、過去の顧客や開発の資料をここから持ち出し、業務で利用することも多い。その都度、いちいちマシンを操作してプリントするよりも、こんなアナログ方式のほうが、場合によっては手っ取り早いこともあるわけ。
しかも、こんなふうに用途別とも思える整理の仕方をされているのであれば……。
誰の発案なのかは知らないが、IT企業のくせにこれはなるほど、おもしろい考え方をするものだ。
これまで、ここSKTの業務内容自体には、さして興味も無かったのだが、もしかして、この会社が開発、販売しているものも、案外おもしろいかも知れないと、ちょっと考えを改めた。
朧げな記憶の中にある会社の年表を引っ張り出し、ファイルを探す。
「あった」
現在、この会社の主力商品である独自開発のモバイル連動型業務管理システム開発当時の資料。
よし、今日はこれを読破してしまおう。資料倉庫って、楽しい。
パラパラとファイルをめくれば、大まかな設計図や仕様書、企画書などから、開発当初の様子を窺い知ることができる。
「へえ、凄いこれ」
時代の流れとともに、世の中は電子化へと進んでいる。だが、なかにはそれに不向きな業種もあるし、また、すべての人や企業が即座に順応できるわけでもない。
特に、古い体制を維持してきた企業では、新たにシステムを導入したところで、それまでの業務の流れを崩したくない現場の抵抗に遭ったり、実際の業務内容にそぐわなかったりと、使いあぐねている場合も多いと聞く。
しかし、このシステムは、ユーザーインターフェイスもわかりやすく、ある程度直感的に使用しても問題が無さそうだ。また、汎用性拡張性にも優れている。この考え方であれば、アナログな体質の中小規模事業にも融合し易いのではないのだろうか。
この資料の日付によると、創業当時から開発が始められ、完成までに数年を要している。
この頃の日本で、業務管理を一元化できるシステムは、大手企業を除く中小規模事業者には、まだそれほど普及していなかったはずだし、導入されていたとしても、その殆どが海外の既製品であり、規模の大小を問わず、個別のカスタマイズにかなりの資金と時間を要し、それらをめぐってのトラブルも多かったらしいと記憶している。
「これ作ったのって……」
前のほうにページを遡ると、開発者の名前が記されていた。
「小林、尊……」
佳恵の言葉が、脳裏に浮かぶ。
『……司叔父の学生時代からの親友で、司叔父と一緒にウチの会社を立ち上げたウチの頭脳、開発の統括部長だよ?』
知らなかった。尊って、本当に凄い技術者だったんだ。
三階はどうなっているのか知らないけれど、見る限り、リビングにはローテーブルとラグ、寝室にはベッドひとつだけと、家具らしい家具すらもろくに無い、尊のあの家。
きっと、ほとんど家に帰らず会社に泊まり込み、仕事ばかりしているのだろうと容易に想像が付く。
そして、システム完成後の急成長ぶり……。
なるほど、仕事の鬼と怖れられる理由もわからないではない。『小林尊』と、プリントされた文字を指でなぞりながら、笑みが零れた。
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