17

 総務部のオフィスに滑り込んだのは、業務開始二分前。遅刻はギリギリ免れたが、いつもなら二十分前には出社して、スマートに仕事を開始する私がなぜこんな目に遭っているのだと思うと、めちゃくちゃ悔しい。


 いつものように皆が集まり歓談をしている傍を、おはようと挨拶だけして素通りしデスクに座ると、なぜか美香、楓、エリカのトリオが寄ってきた。


「関口さん、服が昨日と同じだぁ。もしかして、お泊まりとかぁ?」

「きゃー! マジでお泊まりぃ?」


 どうにかならんのかね、この女子どもは。


 出社早々ツッコミが入るのかと、ため息を漏らす。普段の様子から、私の服装がどうだろうが、この子たちが興味なんぞ持つわけがないと高を括っていたが、どうやらそれは甘かったらしい。


「はい、お泊まりです」


 ホントにお泊まり? 真面目そうな顔して信じられなーい、と、予想どおりキャーキャーと囂しい。


「ね、ね、彼氏ってどんな人?」

「仕事はなにしてんの? 年収は? 格好良い? 背高い?」

「どこ泊まったの? ホテル? それとも彼氏の家?」


 彼女たちの頭の中では、お泊まりイコール彼氏と相場は決まっているわけだ。気楽でいいね。だがいまは長くなりそうなこの話に、付き合えるタイミングではない。

 ワクワクと好奇に輝く六つの瞳に見つめられる中、話を終わらせるべく、口を開いた。


「実家ですよ。急用があるって呼ばれて仕方なく」

「ええぇー、実家? なあんだー、つまんないのー」


 三人声をそろえて一様に残念がり、それぞれの席に戻っていく。だが、その顔にはっきり『やっぱりね』と書いてあるのはなんなのだ。


 自嘲気味にうっすら笑いを浮かべる。

 本当のことなんて、誰にも言えるわけがない。


 佳恵は週明け早々から関西方面へ出張、帰りは週末になるそうだ。これは、私にとって幸運といえる。

 なにしろ、あの女は勘が鋭い。もし今日、社内にいたら、間違いなくランチは一緒。そうなれば、絶対に何か気づかれる。容赦の無い詰問から逃れる術はないから、すべて吐かされること請け合いだ。



 総務のお仕事は、基本的に事務仕事だが、社内の雑事、たとえば業者を頼むほどではない修繕や力仕事、会議室やミーティングルームのお茶の準備と片付け、他部署の応援など、さまざまな仕事も含まれる。

 地下にある書類倉庫の管理もそのうちのひとつで、他部署の手が回らないときには、書類配達を請け負うこともある。


「美香ちゃんとエリカちゃん、資料倉庫からファイル持ってきてほしいんだけど、頼める?」

「えー? いまですかぁ? すみませーん、私たち今日当番なんで、もうミーティングルームの準備行かないとー」


 察しのいい女子三人は、逃げるようにパタパタと消えていった。

 いったいいつからミーティングルームの準備が当番制になったのだ。おやつのつまみ食い目的なのは明白なのに、まったく白々しい。


 そしていま、自席に残っているのは、江崎と私。

 江崎は嫌みな性格のくせに意外とできるヤツで、いつもかなりの量の仕事を抱えている。だから、まず間違いなく、お鉢が回ってくるのは私。


「田中先輩、私、行ってきます」


 先回りして立ち上がると、江崎が私をチラ見して、フンと鼻で笑うのが目の端に見えた。


「行ってくれる? 悪いわねー。でも、ちょっと多いから……ひとりで持てない量じゃないんだけど……」


 失敗。だから私ではなく、あの子たちに声をかけたのか。

 いまさら気づいても、後の祭り。


 田中先輩から必要ファイルの目録を受け取り内容を確認。確かに、ひとりで持ちきれないほどの量ではないと、資料倉庫へ向かう。


 地下らしく少し低い天井付近まで届く高さのファイルラックが、整然と並んでいるだけの静かな空間。それが、普段ほとんど人が入ることの無い、書類倉庫だ。


 資料集めそのものは、造作もない。

 目録と照らし合わせ、高い所のものは脚立を使って取り出し、入り口近くにひとつだけポツンと置かれたデスクの上に積んでいく。たいした時間も要さず作業は終わり、あとは上まで運ぶだけだ。


「あれ? 関口さん、こんなとこでなにしてんの?」


 ドアの軋み音とともに聞こえてきたのは、聞き慣れた声。振り返ると、大沢が嬉しそうに顔を綻ばせている。


「大沢さん、おつかれさまです」

「もしかして、それ全部ひとりで運ぶの? 俺、手伝いますよ。ちょっと待っててもらっていいっすか?」


 資料の山を一瞥してそう言うと、大沢は返事も待たずに、急ぎ足で奥の棚へ向かった。

 どうしよう。これをひとりで運ぶのは、ちょっと厄介ではあるが、大沢に手伝ってもらうのもどうかと思う。

 だが、だからといって、黙って消えるわけにもいかず。

 迷っているうちにファイルを一冊手にした大沢が戻ってきた。


「じゃあ行きましょうか?」


 私のすぐ脇で、ファイルの山に手を伸ばす大沢に愛想笑いを向けると、なぜかその表情が変わった。


「あ、はい。すみません。お願いします……?」

「関口さん? それ、昨日と同じ服ですよね?」

「えっ?」

「それに……なんか、いつもと匂いが違う」


 鼻を近づけ首筋の匂いをクンクン嗅がれ、思わず仰け反った。


「ちょっ……やめ……」


 大沢にまで服のことを指摘されるとは。


 いつ見たのだろうか。昨日は会っていないはず。それに、匂いがって、なんなんだこいつ。総務の子たちといい、大沢といい、そこまで細かく他人を観察しているとは、意外だった。


 とにかく、今後は要注意。いや、こんなこと、二度とあってたまるか。


 何を言い出すかと身構えていたが、大沢はふっと息を吐くと、無言でファイルの山へ手に持っていた薄いファイルを重ね、その山を持ち上げた。


「ドア、開けてもらっていいっすか?」


 変わり者だな、大沢は。何を考えているのか知らないが、私なんかにまとわりつかなくとも良い相手はたくさんいるだろうに。


「これ、ひとりで運ぶの大変っすよねー。俺、これから七階で会議なんでちょうどいいや。資料取ってこいって先輩に押しつけられたんっすけど、来て良かったっす」

「とり二郎、やっぱうまいっすね。またみんな誘って行きましょうよ! あ、ふたりっきりでもいいっすか? 関口さん、ホントにお酒飲めないの? 飲めんだったら、うまい店知ってるんっすけど」

「こんなにたくさん女の子に運ばせるなんて、篠塚課長、何考えてんっすかね? 男いんだから、やらせりゃいいんっすよ、こんな仕事」


 並んで廊下を歩いていても、エレベーターに乗っても、まあ、ひとりでしゃべることしゃべること。心なしか引きつって見える笑顔を張り付けた大沢の、やけに明るく高い声がキンキンと頭に響く。

 もう少し静かだといいのに。おかげで、せっかくのかわいい顔までが残念に見えてしまう。


 まずいな。頭痛がしてきた。


「大沢! なにやってんだ? 早く来い!」


 きっと同じ営業部の仲間だろう。エレベーターに一番近い第一会議室の前に居た、名も知らぬ男性が声を張り上げる。


「すんません。これ、運ぶの手伝ったらすぐ行きます!」


 どうやら皆は、大沢待ちらしい。私は足を止め、前を歩く大沢に声をかけた。


「大沢さん、ありがとうございました。もうここで大丈夫です。あとは自分で運べますから」

「えー、遠慮しなくていいっすよ。もうちょっとだから」

「でも、皆さん待ってるんじゃないですか? 早く行ったほうが……」

「平気ですって!」


 押し問答をしている大沢の背後から、見慣れた顔が歩いてくるのが見えた。その全身からは不機嫌オーラが漂っている。


「大沢! 会議始まってるんじゃないのか? 早く行け!」


 大沢も大概背は高いが、さらにその上から降り注ぐ鋭い視線が背後から私を睨みつけている。

 怖い。この男を取り巻く冷気で、周囲の気温は絶対二度は下がっているはず。いや、それ以上か。背筋にぞわっと悪寒が走った。


「あ、小林統括……。あ、あの、でも俺、これ運んで……」

「俺が運ぶ。おまえは行け」


 有無を言わさぬ威圧感に、大沢が怯えている。

 尊がさらにジロリと大沢を睨むと、大沢はまるで操り人形のごとくファイルの山を渡し、数歩後退ってから踵を返し、会議室へ逃げ込んだ。

 その姿を呆然と見送り、ふと横を見ると、尊の姿はすでに遙か遠く。小走りでなんとか追いつき、オフィスへ一歩入り硬直した。


 総務部に突然現れた雲の上の上司の絶対零度の瞳と、恐怖を増大させるその美しい容姿。皆、固唾を呑み、身動きひとつできずに、尊の一挙手一投足を見つめている。


 温厚な篠塚課長の笑顔まで凍り付かせるその破壊力を目の当たりにし、エアコンの温度は、下げるのではなく、設定を暖房に変えるべきだった、次からはそうしよう、と、思った。


「篠塚さん、隣、空いてますか? 空いてたらちょっと使わせてもらいたいんですが」


 課長のデスクにファイルの山をどさっと下ろしながら、ニッコリ微笑む笑顔が怖い。

 その笑顔に引きつったのも一瞬、すぐにペースを取り戻し、和やかに対応する篠塚課長はさすがベテラン。


「空いていますよ。どうぞ使ってください」


 隣、とは、総務部のオフィスに隣接する極小会議室のことである。


「あ……コホッ、関口、一緒に来い。おまえに話がある」


 振り向きざまに発せられたその言葉を受け、皆の視線が一斉に私へ注がれる。


 好奇、嫉妬、同情、憐み……、視線の色は複雑だ。



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