16
「だったら、だったら……」
「だったら?」
「離婚よ! 離婚しましょう!」
顔を上げ力強く尊を見つめ、勢いに任せすぐそばにあった左手を両手でがっちりと握りしめる。冷んやりとした固い感触が掌に伝わった。視線を下ろし、恐る恐る握った手を開いてみると、その感触のありかは、左手の薬指。
「えっ?」
ダメだ。結婚指輪ごときで、怯んではいけない。もう一度その手をぐっと握りしめ、顔を上げた。
「離婚?」
「そうです! 離婚! いますぐ、離婚しましょう!」
怪訝そうに眉を顰める尊が「なぜ?」と首を傾げる。
「なぜって……それはほら、さっきも話したとおり、三年も音信不通だったんだし、お互いいまのままじゃ困るだろうし……」
「俺は、困らないが?」
「だ、か、ら! 私が困るって言ってるのよ!」
つい、声を荒げてしまった。ここは冷静沈着穏便に話を進めなければ。
「そうなのか? おまえは困るのか? だったら聞くが……、どうやって離婚するんだ?」
「へ? どうやって? って?」
「わかってると思うが、俺たちの結婚はアメリカで承認されているだけで、日本ではまだ届けを出していない」
「そうよ! だから、私はまだ独身! って、えっ? 日本では? それって、どういうこと?」
コホンと軽く咳払いをし、片眉を上げた得意げな顔。
「本来であれば、帰国してからすぐに婚姻届を提出する予定だった。それは覚えてるよな? だが、おまえは空港からそのまま行方不明……」
「うっ……それを言われると……」
旗色が悪い。
「婚姻届が提出されていないのだから、日本の戸籍上はまだ夫婦ではない。婚姻が無いのだから、離婚もできないということだ」
「……ってことはつまり、法的には結婚してないってこと?」
「いや、さっきも言ったとおり、俺たちの結婚は正式に法律で認められている。だから日本で届け出していないのが、違法なんだよ」
「違法? マジで? じゃあ、どうすればいいわけ? どうすれば離婚できるの? またラスベガスへ行けば離婚できる?」
「向うに住んでるわけでもないのに、向こうで離婚できると思うか?」
「できないの?」
「できないね」
「だったら、どうしたら……」
頭が痛くなってきた。
「ひとつだけ、方法がある」
「方法? どうすればいいの?」
「それは、日本で婚姻届を提出すればいい」
「はぁ? そんなこと!」
冗談じゃない。絶対に無理。
日本で婚姻届なんて提出したら、皆にバレてしまう。突然の結婚だけでも大騒ぎになるのは目に見えているのに、その上、即座に離婚だなんて。父と祖母がどれだけショックを受け悲しむか。想像もしたくない。
狼狽える私の頭に手を乗せて、尊は優しく微笑んだ。
「心配するな。おまえひとりじゃ、離婚はできないからね」
ニヤリと笑うその顔は、やはり黒かった。
あなたさまのおっしゃる意味が、わかりません。
::
で、どうしてこうなったのか、わからない。
ぴったりと重なった汗ばんだ背中と腕。うなじにかかる、規則正しい寝息。
私の後ろから手足を絡みつけて寝ている尊の左手薬指には、あのとき、二人で選んだプラチナの結婚指輪が光っている。
尊はいったい、どういうつもりなのだろう。
思いがけず音信不通となり、二度と会えないと思った相手と感動的な再会を果たした、と、いえばそれはそうなのだが、そのとたん、この当たり前のごとき夫ヅラ。
あれから、私たちの間には、三年もの月日が流れた。それも、文字通り、勝手に流れただけで、ふたりの間に積み上がったものはなにも無い。それなのにこの態度はなんなのだ。こいつは、私は、そんなに簡単に元の鞘に戻れるのか。いや、簡単だ。こいつは知らないが、少なくとも私は。
たった三日、たったの三日だ。正式であろうとなかろうと、あの日の誓いは、この手で掴む前に消えた夢。
連絡不能に陥ったあと、きれいさっぱり忘れたんじゃなかったのか。忘れておひとりさまの人生を謳歌すると決意した、あの日の自分はどこへ行った。
昨夜はその決着をつけるつもりだったのに。それなのに、それなのにどうして私は、こいつに絆されているんだ。
我ながら、呆れる。
「たった三日、されど三日か……」
「……ん?」
背中に張り付いている尊がもぞもぞと身動きをした。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「……いや……」
あらためてギュッと絡みつく力強い腕と足。暑い、重い、私は抱き枕じゃないぞ。
「起きなきゃ……」
「……ん、もう少し」
「起きて会社行かないと」
腕の力が少し緩んだ。
「……いま何時?」
知るか。
「時計どこ?」
ん……と呻き、尊が腕を伸ばして枕元を探っている。目の前に差し出された目覚まし時計の数字を目にしたとたん、バッチリと目が覚めた。
「わっ! ちょ……八時二十分?」
ここから家まで二十分強、大急ぎで身支度を整え出たところで、遅刻は免れない。
「まだ早い……まだ寝れる」
ひとの首筋に顔を埋めて色っぽい寝ぼけ声でボソボソとしゃべっている場合じゃないだろうが。
「ちょっと! 遅刻だよ? あなたは重役出勤でいいかも知れないけど、私はそうはいかないんだって!」
「……なんで? 一緒に行けばいいだろう?」
「ふ、ふざけないでよ! あんたなんかと一緒に会社行けるわけないでしょーが! とにかく! 起きるから離してっ!」
うっ、と、尊が唸った。必死でもがいているうちに、肘がどこかへ当たったらしいが、少しくらい痛い思いをさせたところで、罪の意識なんぞ感じることはまったくない。
やっとの思いでベッドから這い出ることに成功。床に散らばった衣類の中から自分のものだけをより分けてまとめていると、背中でクスクスと笑い声が聞こえる。
ムカつく。慌てている様が、そんなにおかしいか。
「シャワーぐらいしていけよ」
「うるさい! わかってる」
誰のせいでこうなった。きっとこいつはこれから二度寝するのだと思うと、腹が立つ。
「歩夢、エアコンの温度、一度下げといて」
「はぁ?」
その一言を残して寝返りを打ち、再び惰眠を貪ろうとしている尊の背中を睨みつけて閃く。
悪魔め。凍え死ぬがいい。
サイドテーブルにあったリモコンを手に取り、壁のエアコンに向けて、温度設定のボタンを乱暴に連打してやった。
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