14
三年ぶりの再会に、歓喜している場合ではないと、両手で力いっぱい尊の胸を押し、その唇から逃れようと試みた。
「おい? どうしたんだよ?」
意味がわからないと不満そうにぐいっと腰を引き寄せられ、うぐっと呻き声がでる。
「どうした? じゃないですよ! 私とあなたは、いきなりこんなことをする関係じゃ……」
「いきなりこんなことをする関係じゃなかったら、どんな関係だよ? うん?」
腰を抱く手にさらに力がこもり、絶対に離すつもりはないと、その腕が意思表示している。
「いや、ですから、私たちの関係は」
「夫婦だろうが?」
「だ、か、らー、ちょっと待ってくださいよ」
「待てってなにを待つんだ?」
「あの、少し落ち着きましょうよ?」
「俺は落ち着いているが?」
「はぁ……まあいいや。いや、確かにですね、私たちはラスベガスで結婚式を挙げましたが、だからって、本当に結婚したわけじゃないですよね?」
「どうして?」
「ど、どうしてって………」
どうしてと訊かれ狼狽え、わかんない人だな……と、口の中で呟いた声にならない声は、どうやら聞こえてしまったらしい。尊の語気が心持ち強くなった。
「なにが?」
「で・す・か・らあ! あれは、あのときの勢いっていうか、記念っていうか、旅の恥はかき捨てっていうか……。だから、あのときだけのことだったんじゃないですか? って言ってるんですよ!」
なんなのこいつ。バカなのか。
「おまえはそんないい加減な気持ちで、俺と結婚したのか?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど……でもね? もう三年も音信不通だったんですよ? 三年も経ったらそれなりに色々あるのが普通でしょう? それをいきなり抱きしめられてキスされて、夫婦だからって言われて、はいそうですかって、納得できると思いますか?」
「だったら、どうすればいいんだ?」
「せめてほら、まずは、久しぶりだねとか、元気だった? とか、そんな言葉があったっていいんじゃないですかね?」
「ひさしぶりだなげんきだったか」
ぼーよみかよ。
「……あのねぇ」
「なんだ? 不服そうだな? そもそも三年も音信不通になったのは、おまえが突然俺の前から消えたからだろうが? 電話しても通じないしどこにいるのかもわからなくて探すこともできなかったんだぞ? それともナニか? おまえは、故意に逃げたのか? 最初から俺を弄ぶつもりだったのか?」
「そ、そんなわけないでしょう? 連絡できなくなったのは携帯水没による不可抗力だって言ったの忘れた? 私が悪かったって思ってるし、そもそも私だってそんないい加減な気持ちじゃなかの、あんたもわかってるでしょう? でもだからってこんなの普通じゃないって言ってるだけ! 私の言ってること、わかんないの?」
「いい加減な気持ちじゃなかったんだったら、やっぱり夫婦だろうが? 俺のどこが間違ってるんだ? 夫が妻を抱きしめてなにが悪い? まったく、人の言ってることがわからないのは、おまえのほうだろうが!」
うわぁ。なんなんだこいつ。人の話、聞けよ。
お互いの声が大きくなり、語気もすっかり荒くなっている。これ以上の言い合いも睨み合いも無駄だ。冷静に話をしなければ埒が明かない。それはわかる。わかるが、こんな状況じゃ、無理。
「と・に・か・く! 痛いから先にこの手を離してよっ! 話はそれからだってば」
腰を抱いていたその腕を突然サッと離され、バランスを失ってよろめく体。とっさに踏ん張ろうと重心を移動した足を捻り、壁に縋りつくも抵抗虚しく尻餅をついた。
「いったぁ!」
「……悪い」
頭にカーッと血が上って、私を助け起こそうとした尊の手を思わず振り払ったが、申しわけなさそうなその表情に、怒りは即座に罪悪感へと塗り替わる。
なんか、悪いことしちゃったかも。
「ごめん……私……」
きまりが悪く俯いた私を、尊が抱きかかえるように引っ張り上げる。立ち上がり、足を少し動かしてみたが、痛みはそれほどでもない。大丈夫。大したことはない。
「足は?」
「うん。平気」
とりあえず座れと促され、肩を借りすぐ横のソファへ腰を下ろすと、尊が足元に跪いた。
「見せてみろ」
「え、いいよ。そんな……」
拒否なんてはじめから聞く気もないのだろう、その手はすでに脹脛を掴んで靴とショートストッキングを脱がせ、踝を撫でたり動かしたり、怪我の様子を観察している。
「大丈夫そうだが……腫れてくるとまずいから、湿布くらいしといたほうがいいかもな」
顔を上げ突然ニッコリ微笑まれて驚く。
こいつ、普通に笑えるじゃないか。
「い、いいよ、そんな大げさにしなくって」
「あ、待てよ? 湿布、湿布、確かどこかにあったはず」
やはり人の言葉を聞く気がこれっぽっちもない尊は、私の膝をポンと叩いて立ち上がると、どこだっけなあとブツブツ独り言ち、あちらこちらと物色しだした。
その背中を眺めがなら、こいつってこんな奴だったかなと、朧げな記憶の中から、三年前の様子を掘り起こし、クスッと笑った。
「ねえ、もういいよー。大丈夫だからさ」
「おっ、あったあった! これ、使えるだろ?」
デスクの背面、窓際に置かれた越高のキャビネットから取り出した小さな箱はきっと、湿布薬。こちらへ歩きながら眉間に皺を寄せ目を顰め、説明書きの小さな字を読もうとしているその様子がおかしい。
すぐそばにメガネあるのに。
再び足元に跪き、位置を確認して湿布薬を貼り、慎重にショートストッキングを履かせる丁寧な動作のひとつひとつに、熱くなる目頭をごまかすがごとく訊いた。
「ねえ、なんで湿布なんか置いてあるの?」
「あー、これ? これは、アレだ。一時期肩こりが酷くてさ。臭いって評判悪かったけど、これ、結構いい仕事するんだよ」
さっきまでの怖い顔はどこへいったのやら。上目遣いで微笑むこいつは、私の知っている尊そのもの。容姿はまるで別人だが、こういう飾らないところは、変わっていない。
「ありがと」
頰が熱をもっている。お尻もムズムズ、居心地が悪い。
「喉乾いたろう? 何か持って来させよう。コーヒー、紅茶、日本茶、冷たいの熱いの……」
興奮し過ぎてすっかり忘れていた。
この御方は偉い人。雲の上の上司。私は、この部屋の客ではなく、一介の平社員。
「いえいえいえいえいえ、そんな! 滅相もない!」
プルプルと首を横に振った。
「なんだよ? 遠慮してるのか? まだ話だって途中なんだから、飲み物くらい……」
「いや、だって、じゃなくてしかし、仕事に戻りませんと」
「あー、それもそうか……。あまり引き止めるのもまずいな。さて、どうするか」
「どうする……と、言われましても……」
「おい! なんだよそれ?」
伸びてきた手に額をパシッと叩かれた。
「イテッ!」
「おまえのその口、鳥肌立つ!」
ううぅ痛い……。容赦無く叩くところも、まったく変わってない。
「そうだな、だったら……、夜、一緒にメシ食おう。総務だったよな? 五時に迎えに行く」
衝撃で額をスリスリと摩る手が止まる。
「は? 冗談! そんなの無理!」
「なんだよ? メシ食うのはダメなのか?」
「え、あ、いや、そうじゃなくて、迎えは……」
「ダメか?」
「絶対ダメに決まってるでしょう!」
睨みつけてみたが、効き目は無し。
「……面倒くさい奴だな。わかった。じゃあ、五時過ぎに裏の通用口だ。これなら、文句ないだろうが」
断る隙もなく、夕飯に付き合わされる羽目に。うまく言いくるめられた気もしないでもないが、まあ、それもいい。話し合わなければならないことを先延ばしにするよりは。
「総務まで送る」
「たっ、たけるっ!」
「あー、わかった、わかったって。送っていかない。それでいいだろう?」
まったくこいつは。故意なのかそうじゃないのか、よくわからない。
ニヤリと片側の口角を上げただけの笑顔が黒く見えるのは、気のせいだと思いたい。
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湿布薬が効いているおかげなのか、普通に歩けるし痛みも無い。やはり、ここまで大げさにする必要は、無かったのだ。歩くたびに引き攣れるこの湿布薬を、次にトイレに行ったら、絶対に剥がしてやろうと思う。
そもそも、尊に呼び出された理由はアレ。ここは会社で、あいつは開発部統括部長なんて御偉いさんのくせに、公私混同もいいところだ。だが、その御偉いさんが総務課の一事務員を呼びつけた理由がそんなものだとは、誰も思うわけがないわけで。
遠巻きにニヤニヤチラチラこちらを窺う好奇の目、あからさまに聞こえるコソコソ話。呼びつけられた適当な嘘すら浮かばない私には言い訳すらできず。
仕方なく黙って席に着き、なにごともなかったがごとく装い仕事を再開したが、居心地の悪いこと。
なぜこんな目に合わなければならないのだ。
原因はともかく、尊との恋は、三年前に終止符を打った。私の気持ちとしてはそれこそ、穴を掘って埋めて墓標まで立てて記憶の彼方に葬り去った過去。
私ももう二十八歳。あの頃とは、考え方も生活も変わった。自分の生活にも満足している。だから、三年前がいまさら戻ってきたところで、なにをどうすればよいのやら。
しかも、突如現れたその相手は、なんと雲の上の上司。やりにくいことこの上ない。
だがこれは、正面から立ち向かうしかない問題。尊との関係をはっきりとさせ、今後のことを話し合うのは必然。
だからって、お友達から始めましょうとは、言ってくれるわけがないわけで。
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