13
「えっと、いや、ですから……それはですね、あの、空港で別れたところまではよかったんですが……。それから、えっと、と、と、トイレに行ったんですよ。そこで、あの、けっ、携帯がですね、ポチャンと……」
「……は?……」
「そ、それでですね、携帯を新しくすることになりまして……、まあ、これもいい機会かな? と、ついでに番号も変更してですね、手続きを済ませて新しい番号を連絡しようと思ったんですが……そしたら……そしたら、電話番号がわからなくて……それで……」
そう、それはよくあること。典型的なついうっかり、あとの祭り、と、いうやつである。
三年前、この男と別れたのは旅の終わりに一緒に降り立った空港だった。あのとき、この男はそのまま仕事先へ行き、私は、タクシー乗り場でしばしの別れを惜しみつつこの男を見送ったあと、空港でトイレを済ませ、予約していた高速バスに乗り込むはずだった。だが、そのトイレで事件は起きた。
なんと、携帯電話が水没してしまったのだ。
その携帯電話のアドレス帳には、前の会社の同僚がほとんどと、数少ない友人と家族の連絡先のみが入っていた。数ヶ月前に変更したばかりの新機種のご臨終は涙モノではあったが、ここでダメになったのも、もしかしたら、不要な人間関係を淘汰せよとの、天の啓示かも知れない。
どうせ友人、家族とは他の方法で連絡が取れるのだし、と、気を取り直し、それまでの回線事業者を解約してべつのところへ乗り換え、電話番号も一新することに。
新たな携帯電話を手に入れ、ウキウキ気分で「そうだ! 尊に新しい番号教えなきゃ!」と、それを握ったところで気づく。この男のアドレスは、携帯電話と一緒に便器の底へ沈んだことに。
もちろん、元の電話番号はもう無いから、電話を受けることも不可能。まさかこんなことになるとは夢にも思っておらず、住所すら記録していなかった。
あれは、あとにも先にも私の人生の中で起きた最低最悪の悲劇。
二度と、会えない。
あんなに泣いたのは、生まれて初めてだった。その後の一週間は、ショックで食事すら喉を通らなかったのを、いまでも覚えている。
この『ア・キ・レ・タ』と、ハッキリひと文字ずつ書かれているどう見ても別人に見える顔は、本当に尊のものなのだろうか。あの尊とこの小林統括部長は、本当に同一人物なのか。
見上げる先にある顔の眉尻が下がり、口からフーッと大きく息を吐いた。ゆっくりと瞬きをして目を開けると、至近距離から私を捉えたその瞳はなぜか優しい。
「歩夢……俺が、どれだけ心配したかわかるか?」
そうささやく声が震えている。みるみるうちに眉が歪められ、何かを怺えるがごとく強く結んだ口元。
目の端でゆっくりと私に向かって伸びてくる手に気づき、息を止めた瞬間、強く抱き竦められた。
「もう、二度と会えないと、思ってた」
私の髪に顔を埋め耳元でささやくその声は、まるで泣いているよう。
この人は、本当に、本当に、大好きだった、私の尊なのだ。
尊とは、以前勤めていた会社を退職し、しばらくぶらぶらしていた頃、たまたま入ったコンビニの入口脇にあった旅行会社のパンフレットの表紙に載っていた煌びやかな写真に惹かれて申し込んだ全日観光朝夕食付きラスベガスツアーで知り合った。
ツアー客は皆、カップルや家族連れなどのグループ。私と尊だけがひとり参加で、観光も食事も、余り者ふたりは常に同席させられた。そのたびに、無言を押しとおし無視し続けるわけにもいかず、ぽつりぽつりと会話を始めれば、親しくなるのは当然の成り行き。
いつの間にか意気投合し、ツアーの予定以外のランチや夜の外出にも、ふたりで出かけるようになった。
あのときの尊は、痩せぎすで天然パーマらしい中途半端な長さのボサボサ頭に無精髭。服装はといえばチェックのよれよれシャツにベージュのこれまたよれよれチノパン、履き古したスニーカーと、典型的なオタクファッション。けっしてイケメンだったわけではない。
私はといえば、目の下の隈がトレードマークの地味でなんの魅力も無い無気力な女だった。
普段と違う環境に浮かれたのか、それとも、運命と呼ぶべきものだったのか。その短期間の内に、私たちは恋に落ちた。
もっとも、あれが恋と名の付くものだと知ったのは、ずっとあとのこと。あのときの自分を代弁するならば、あれは、衝動。それこそ、動物的本能だったと言っても過言ではない。
その上、私たちは、ただ恋に落ちたに留まらず、なんと、結婚式まで挙げてしまったのだ。
そしてツアーの終了とともに、そのたった数日間の結婚生活は、あっさりと、これ以上は無いだろうと思えるほどくだらない理由で、結末を迎えた。
あとから考えればあれは、それこそ人生最大の汚点、恥ずかし過ぎて笑い話にすらしたくない、お粗末な最初で最後の恋である。だから、あのことは、一番近くで私を常に支え続けてくれる佳恵にすら話せない、A級の秘密なのだ。
その、人生最大の汚点が、三年も経ったいまごろになって、突然、再び目の前に現れるとは。これは、天の嫌がらせか。
とっくの昔に忘れたつもりだったのに、きつく抱きしめるその腕の力強さや、肌から仄かに香る匂いが懐かしい。私の頬を撫で、髪をかき分けるそのゴツゴツした手の温もりも、見つめる焦げ茶色の潤んだ瞳も記憶にある。
チクチクと髭がくすぐったくはないけれど、この少しだけ冷んやりとした柔らかい唇の感触も、この味も……。
って、ちがう。
「ちょっ、ちょっとまったあ!」
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