それは、ホントに不可抗力で。

12

 初めて上がった九階は、偉い人のためのフロア。


 下界とは違い、値段の想像もつかない絵画や壺などの装飾品がそこここに飾られ、ふかふかの絨毯が敷かれた廊下を、身体のラインを引き立てるダークカラーの高級スーツでビシッと格好良くキメた美人秘書が、ピンヒールで闊歩しているに違いないと、かなり期待していたのだが。


 その期待はあっさりと裏切られ、装飾品も絨毯も無い廊下は、自分の靴音はおろか、呼吸音さえも聞こえるのではないかと思うほど静まり返っている。


 誰も、居ないよ。


 そもそも、私を呼び出した張本人、小林統括部長のオフィスはどこなのだろう。


 意味もなくコソコソと辺りを憚りながら、忍び足で廊下を進んだ突き当たりに、やっと秘書課のプレートがかかったドアを見つけた。


 ドアの内側に人の気配を感じ、ホッと胸を撫でおろす。

 小さくノックをし、そっとドアを開いたオフィスの中に居たのは、これまた予想の斜め上。四十代と思わしき黒縁眼鏡をかけた四角い男性と、田中先輩と同年代であろう白いブラウスに黒いタイトスカートとシンプルな出で立ちの、少々ふくよかな女性だけ。


 要件を告げると、快く案内を申し出てくれたその女性に先導されて、またまた延々といま来た廊下を戻る。

 エレベーターホールを挟んだ反対側の突き当たりが、どうやら小林統括部長のオフィスのよう。

 つまり、廊下を中央から端へ、さらに反対側の端へと歩き、無駄に体力を使ったわけ。下で先に場所はどこだと確認をしてから来ればよかったと、自分の頭の回らなさを少しだけ呪う。


 執務室のドアの前に立ち、当然のごとく秘書が私の来訪を告げるものと思い後ろへ一歩下がると、彼女が体ごと振り返った。そして、どうせノックしたって聞こえやしないんだから、勝手に入ってね、と、ニッコリ笑ってそのままオフィスへ戻っていった。


 おいおい、それはないだろう。

 脳内でツッコミを入れ、舌打ちをする。


 数回ノックをしてのち、さっきの言葉の意味が理解できた。彼女の言うとおり、中からはまったく反応がない。仕方なくひとつ大きく息をして精神統一。ノブに手をかけて静かにドアを開け、恐る恐る数歩進み、小声で挨拶をし返事を待った。


「失礼します。総務課の関口です。あの、ご用件は……」


 広い室内の手前には、壁一面の書棚と布張り灰緑色のスタイリッシュなソファセット。そして、一番奥の大きなデスクにはモニタが四台ずらり並び、その向こうにかろうじて頭のてっぺんだけが見える。


 あの頭の主が、小林統括部長だろうか。


 私の存在に気づいているのかいないのか、流れるようにキーボードを叩く音だけが室内に響き続け、それが緊張を助長する。


 突然音が止み、その人物が立ち上がったと同時に、私はヒュッと息を飲んだ。

 エレベーターの中ほど至近距離ではないため、かえってその全貌が見て取れる。

 遠目でもはっきりとわかる目鼻立ちの整った容姿、すらりとした体躯は、細めではあるが痩せ過ぎではない。服装はいたってシンプルだが、すっきりと清潔感がある。あれは、ビジネスカジュアルというものだろうか。


 小林統括部長はなぜか眉間に皺を寄せ、部屋の入り口付近に立ち竦む私を見つめている。

 銀縁眼鏡の奥から注がれるその眼光が絶対零度であると気付いた瞬間、私の背筋にゾワっと寒いものが走り、全身が凍りつく。


 目を逸らすこともできず見つめたまま、永遠にも感じるほど長い、実際には一分にも満たないであろう沈黙。

 息が止まりそうなその緊張感に、拳を握った。


「あゆむ……」

「へっ? あっ?」


 あゆむ。それは、聞き間違えようもない、私の名前。


 耳に入ってきた音が、俄かに信じられない。瞼を閉じ、頭の中で繰り返される音を咀嚼する。


 呼ばれたのは、確かに『下の名前』だった。しかし、目の前のこの男は、一度ちらっと顔を見たことがあるだけの上司。私を名前呼びする理由なぞ無いはずだ。


 危険信号が、脳内に響く。見つめ合ううちに、男の眉間の皺がさらに深くなる。男は私から視線を逸らさず、一瞬目を細めたあと、ゆっくりと一度だけ瞬きをして大きく息を吐き、言葉を続けた。


「三年前……」

「さんねんまえ……?」

「三年前、ラスベガスで……」


 サンネンマエ、ラスベガスデ。


 その言葉を口の中で繰り返し、意味を理解した瞬間、私はさらに大きく目を見開いた。


 ほんの少し口角を上げ、おもむろに眼鏡を外す男が静かに発したその次の言葉は、葬り去ったはずの遠い記憶を呼び覚ますに、十分過ぎるもの。


「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」


 嘘だ! そんなことはアリエナイ。でも、だったらなぜ……。


 男は、私の目を見据えたまま、一歩、また、一歩と近づいて来る。


「う、そ? そんなはず……」

「なぜ消えたんだ?」


 違う、絶対に違う。確かに『姓』こそ同じ小林だが、小林なんて名字の人間は、日本中にそれこそゴロゴロいる。


「そんなことあるはずが……。尊? 本当に?」


 こんなドッキリみたいな再会、にわかに信じられるわけがない。


 髪が短い無精髭が無い痩せぎすでもないこの隙の無いキレイな男は、どこからどう見ても私が知っている『小林尊こばやしたける』とは似ても似つかないじゃないか。


 ただ、その声の響きを懐かしく感じるのは、否定できないが。


「俺が他の誰だと言うんだ?」

「いや……でも、そんな……まさか?」


 頭の芯がジンジンと痺れてきた。なけなしの記憶を総動員し、尊の顔を脳内で再生してみるが、目の前のこの男とはやはり一致しない。


「言えよ! なぜ俺の前から消えたんだ?」


 絶対に逃さないとばかりにゆっくりと言葉を紡ぐその声は、まるで地獄の底から湧き出る冷気のよう。

 怒っている。いや、本当に本人なら、怒らないほうがおかしい。


「きっ、消えるなんて、そんなつもりは……ナカッタノデスガ……」

「だったらなぜ電話が通じない? あのとき、別れ際に仕事が終わったら電話するって言っただろう?」


 ああ、そんなことを、言われたのかも知れない。だが、かも知れないだけで、明確な記憶は無い。だから、この男の言うことが事実なのかそうではないのか、判別もつかない。


 怒りとも悲しみともつかない不思議な色の瞳の奥を、窺うようにしながら思考を巡らせるのは、いま、この場からどうすれば逃れられるのか、それひとつ。


「あ、あの……、そそそ、それは……それはですね、ホントに不可抗力でして……」


 その距離、わずか数歩。小さく一歩、また一歩とあとずさるたび、膝がガクガクと震える。

 左足をさらに一歩下げると、踵がコツンと何かに当たる。チラと視線をやればそこは、すでに壁際。もう逃げ場は無い。男の顔は見上げた鼻先にある。


「なぜだ? 答えろ!」


 まずい。この状況は非常にまずい。



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