11

「……む。あゆむ」


 呼ばれた気がして目を開くと、私を覗き込む父の顔があった。


「あ、寝ちゃってた。叔母さんたちは? もう帰ったの?」

「ああ、さっきな。おまえ、昼、食べ損なってお腹が空いただろう?」

「うーん、そうでもない。寝てたからかな?」


 上体を起こし、伸びをしながらベッドの縁に座り直した。どれくらい寝ていたのか。腰高の窓からは西日が射し込んでいる。


「ばあさんが夕食の支度をしてるから、下りてきなさい」


 そう言いつつも父は、なぜか私の隣に腰を下ろした。


「下に行くんじゃないの?」

「行くが……、その前に、おまえと少し話がしてくてね。たまにはいいだろう?」

「うん? なに?」

「アルバム……、見てたのか?」

「うん」


 開いたままのアルバムをそっと閉じ、表紙の大きな花模様の縁を指先でなぞった。


「なあ歩夢。おまえ、付き合ってる人はいるのか?」

「え? いないよ? なんで?」


 アルバムから目を離し、父の瞳を見つめる。柔らかく微笑むその顔は、どこか少し寂しげに見える。


「いや、いないならいないでいいんだ」


 父はその視線をゆっくりと西日の射し込む窓へ向け、眩しそうに少し目を細めた。私もつられて父の視線の先を追う。窓の外には茜色に染まりかけた青い空と藍色に輝く雲。光のコントラストが美しい。


「歩夢」

「うん?」

「いずれはおまえにも、結婚したいと思えるような相手ができるんだろうなあ……」

「……フフ。どうだろうね?」

「どうだろうって、なんだそれは?」

「えー、だって、そんなありもしない話……」


 父の腕に腕を絡め、甘えるようにその肩に頭を乗せた。


「まあ、おまえはおまえの好きに生きれば良いと、お父さんは思っているがね」

「フフッ、さすがお父さん。よくわかってる」

「だけどな、歩夢。お父さんだって、いつまでもおまえの側にいられるわけじゃない。ばあさんだってそうだ。だから、親としては、将来おまえにも、おまえを守り支えてくれる相手がいたらと思うのは当然のことだと思うが、違うか? もっとも、だからといって無理に嫁げとは言わんがね」


 私を守り支えてくれる相手なんて、二度と無いよねそれは。


「……ごめんなさい」

「どうした? 悪いことをしてるわけじゃないんだから、謝る必要はないだろう?」

「それは、そうだけど……」


 そもそもおまえは子供の頃からぼーっとしているばかりで、危なっかしくてしょうがなかった。

 いまだって家の中でも迷子になれるし、道を歩けば平然と、電信柱にぶつかってその辺に転がっていそうで心配だと、小さい頃を引き合いに出し茶化されてしまっては、苦笑いするばかりで返す言葉も無くなってしまう。

 言いたいことはきっとたくさんあるだろうに、言葉を飲み込んで笑い話にしてくれるのも父の優しさなのだと思うと、なんだか切ない。


::


 ピロピロと聞こえるアラームを手探りで止め、目を閉じたままのっそりと上体を起こした。


 ダルい。


 週末までみっちりと振り回された一週間の疲れを引きずったまま、今週を過ごさなければならないのかと思うと、ため息しか出ない。

 それでも日常は待ってくれない。ベッドから降りてシャワーを浴び、なんとか身支度を整え、すでにポットに蓄えられているコーヒーをマグカップに注ぎ、ひとくち啜った。


『大型で強い台風十一号は時速五十キロで北東方向へ進み、午前九時頃には紀伊半島沖へ達し、その後はさらに速度を上げて夜半には関東地方へ上陸の恐れが…………』


「台風来るのか……」


 テレビの画面には、台風の進路予測図が映し出されている。

 週明けから身も心もどんよりしていれば、天気までもが最悪。

 すまし顔で天気解説を続ける気象予報士を横目に、この一週間をなんとか平穏無事に過ごせますようにと祈りつつベランダに出て、物干し竿を畳み、観葉植物を室内へ取り込んだ。


 会社までは徒歩十五分ほど。帰宅時の天候悪化を考慮し、長傘を持ち出社。

 始業前のおしゃべりも仕事も、平常運転。

 もしかしたら、多少面倒な人間関係はあっても、退社後や休日より淡々とルーチンワークを熟していればそれでいい会社に居るほうが楽なのではないか、と、錯覚しそうになる。


 生あくびを噛み殺し、首を左右に傾けて肩のストレッチをしていると、受話器を置いてこちらを向いた篠塚課長と目が合った。


「関口さん、ちょっと来てくれるかな」


 課長が怪訝そうな顔をしながら、私を呼ぶ。

 なんだろう。トラブルだろうか。


 私が名指しで呼ばれるなんぞ、めったにあることではない。皆がなにごとかとざわめく中、疲れた頭と体を引きずり課長のデスクへ赴いた。


「関口さん、小林統括部長は知ってるね? 君に話があるそうだ」

「はい?」と、首を傾げる私に課長がたたみかける。

「……開発部の小林統括部長だよ? 君、知らないの?」

「あの……開発部の小林統括部長ってもしかして……、無駄にキレイな顔をしたやたらとガン飛ばす目つきの悪いあのオジサンのことですか?」


 瞬時に緊張が走った室内の空気と、ブハッと噴き出す声を背中で聞いて正気に返る。


 シマッタ。心の声が。


「ごほっ……関口さん、君……」

「す、すみません!」


 睡眠不足で頭が回らず、思ってもいないことが勝手に口から出てしまいましたと言い訳をしても、ひとたび出てしまった言葉は、取り返しがつかない。


 小林統括部長はその美貌もさることながら、そもそも会社の偉い人。その上、仕事の鬼で怖い厳しいと有名だ。

 名指しで呼び出されるなんて、絶対にタダでは済まない。絶対になにかマズイコトをやらかしているに違いない、ひょっとしてクビかと、背後でひそひそと話す声が。


「こほっ。まあ、とにかく、言葉には気をつけなさい」

「……はい。申しわけありません」


 七十度の角度で頭を下げれば、その頭上から課長の真面目くさった作り声が降ってくる。


「それで……話は戻るが、小林統括部長が君に話があるそうだ。いますぐ九階の彼のオフィスへ行きなさい」

「……わかりました。すぐに伺います」


 私の失言がそんなにおもしろかったのか、笑い過ぎて涙を拭う田中先輩、ニヤリと薄気味悪く笑う江崎や、好奇心を剥き出しにした美香たちの視線に見送られ、私は緊張の面持ちで九階へ向かった。



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