その3

 ――嗚呼、もうおしまいだ。



 男は絶望しきっていた。

 きっかけは、男の美しい妻の存在。

 その妻がさる宗教の司教の目にとまったことだった。だが、下劣にもその目的が性欲を満たすためだと知ったときは激怒した。

 けれども、巨大な権力の前にはなすすべがなかった。

 妻は強引に寝取られたあげく、自分は職と財産を奪われた。仕舞いには、聖職者を糾弾する悪魔の烙印を押され、死刑台にまで上げられたのだ。

 ここまで来て、いまさら無実を証明することは不可逆に等しい。



「俺はなんのために人生を生きてきたんだ」



 人生の走馬灯がめぐる中、男はひとり天を見上げて祈る。

 神による奇跡を――。

 真実の英雄の参上を――。

 世界を暗黒へといざなう悪魔の降臨を――。

 唯々祈り、自分が生かされることだけを願い続けた。そして、その願いが叶ったのか1つの変化が起きた。

 刹那、男の視界に大きな黒影が映り込む。

 影はすぐに消えていなくなったが、直後に聞こえた「ドサッ」というなにかが倒れ込む音に男は刮目せざるえなかった。

 視線を落として、男が見たモノ――それは、自らを糾弾した司教の死体だった。



「なッ!? い、いったいなにが起きたんだ……?」



 男は驚嘆した。

 しかし、状況をすぐに理解する。なぜなら、そのそばには薄汚れた木綿製のフードで顔を覆った何者が立っていたからだ。

 よく見れば、倒れ込んでいる司教の頸椎にはナイフが深く突き刺さっている。

 それで男は理解した。



 ――この何者かが殺したのだと。



 同時に場が凍てつくのを感じてしまう。

 誰も彼もがなにが起きたのかを理解していない様子。その様子を察して、男は自分だけがいち早く状況を飲み込めてしまったことを怖いと思ってしまった。

 しかし、それも一瞬――。

 途端にあちこちで悲鳴が上がる。

 それは、男の耳にもけたたましい叫び声となって轟き、眼下の聴衆が一斉に逃げ出すさまが一望できた。

 けれども、男にとってそんなことはどうでも良かった。いま気になるのは、自分が処刑されそうになる間際に現れた仮面を被った存在。

 その存在がなんなのか――?

 男は気になった。



「ア、アンタが助けてくれたのか……?」



 男は、男とも、女ともわからぬ存在に問いかける。

 対して、その何者かは男の方を振り返ってこう告げてきた。



「私が助けたんじゃないわ」

「なら、誰が?」

「前提が違うのよ」

「……言っている意味がわからない。アンタ、いったいなにが言いたいんだ?」

「簡単な話よ。アナタがラッキーだったってだけ」



 それを聞き、男は呆然とするしかなかった。

 期待した奇跡も、英雄の登場も為さなかったからである。ただ単に自分は気まぐれで助けられ、生き残ったというやるせなさに男は自嘲した。



「……クク……アハハ……なんだよ……それだけかよ……」

「それと、早くここから逃げないと死ぬわよ」

「ウハハハハ……」



 嗚呼、なんて悲しい……。

 助けられたという状況の無意味さにこれほどの自惚れを感じたことなど、かつてあっただろうか?

 男は、自分の価値のなさを人ごとのように笑った。



「き、貴様ァーッ!! よくも司教様を!!」



 その間にも、司教の暗殺をめぐる事態は動き続けていた。

 矢庭に両端で長槍を持って立っていた神殿騎士が女めがけて突撃していく。矛先は完全に女に向けられ、そのまま突き刺されるかのように見えた。


 ――が、不思議なことに槍先は刺さらない。


 少女がひらりと身体を回転させて舞台を下りたからである。

 男はその所作に魅入った。

 それは、いつか見た旅芸人の曲芸。

 軽やかな身のこなしに空中を旋回する美しい姿態。


 ――男は、そのすべてに。けれども、直後に投げ込まれた細長い円柱状のモノに心の余裕をなくしてしまう。



「う、う、うわぁ~爆発するッ!!」



 男はせっかく救われた命の終わりを覚悟した――が、意外にもそのときは訪れず、爆発物は噴煙を上げてあたりを包むだけだった。

 どうやら、煙幕だったらしい。

 しかも、なんらかの臭いのする煙幕。

 甘い桃のような芳醇な香りと目に激痛を走らせる匂いは、明らかに普通の煙幕とは違っている。



「ど、毒だッ! みんな吸うな! ここから逃げろ!」



 誰かが叫ぶ。

 それで男は煙幕に毒が入っていることに気付いて焦った。



「マ、マズい……。オレも逃げないと」



 どうにかして、首の固定具を外さなければならない。しかし、そうしようにも括りつけられた首板は完全に固定されてしまっている。

 男はジタバタと身体を動かして必死にもがいた。

 ふと、両手首を縛っていた縄がゆるまっていることに気付く。シュルリとほどける感覚して、男は自由になった両手で首板の金具を外してみせた。

 それから、顔をチラリと向けて背後を見遣る。

 すると、斜め後方の床板にナイフが突き刺さっていた。鋭利な刃は縄ごと男の悪運を裂いたらしく、銀色の輝きを放ってその存在を誇張していた。

 それで男は理解した――あの者の言うとおりだったと。



「……フハハッ。まったく、人生ってヤツはまだ捨てたもんじゃないな」



 煙幕が立ちこめる中、男は膝立ちになって天を仰いだ。

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