何も知らない日常へ
「他には……なにも、なかった。気付いたのは、それだけ、だ」
結局、そのことについては話さなかった。
一瞬、「話すな」とささやく声が聞こえた気がして、いやな予感がしたのだ。
ユウとは違う、若い男の声だった。
これが直感というやつなのかもしれない。
それに、脳を破壊されたらどうしようもないと、男は断言していた。となると、男に聞いても意味はないだろうし、やはりあれは夢だったのかもしれない。
そのような質問をして、正気を疑われるのが嫌だった。
なによりこれ以上よく知らない相手と話し続けたくないというのもあった。ユウとしては、早く話を済ませて立ち去ってしまいたかった。
「そう、か……聞きとりは以上だ。協力感謝する」
感謝の敬礼を行って、話を切り上げる。
返答までわずかに間があったことが引っかかったようだが、深く追求することはなかった。
これ以上続けても、有用な情報は得られないと判断したのかもしれない。
「待ってくれ。一つだけ教えてくれ」
男は一人で納得しているようだが、ユウはそれでは収まらない。
もう用事は済んだといった態度の男を呼び止めて、自分に意識を向けさせる。
「あの怪物は結局なんなんだ。隣でテロって話があったけど、それと関係しているのか」
彼とて、怪物に襲われた当事者である。聞き取りにも応じたのだし、少しくらいは情報を提供して欲しいとの思いがあった。
「まあ、テロ、と言えば似たようなものかもな。すまないが、機密にあたる事項でね。詳しくは話せないんだ」
その言葉自体に偽りはないのだろう。
しかし、どうもそれだけではないように感じられた。ユウに対する態度が、どこかおざなりになっているのだ。
どうせ話しても意味がないと、初めから決めつけているように。
「知りすぎないほうがいい場合もある。せっかく助かった命なんだ、大切にしな」
ポンと肩を叩かれる。
その瞬間、ゾッとした怖気がユウを襲った。
力は籠っていないし、軽く触れられた程度である。
だというのに、何故か嫌な予感がした。
「だから、もう忘れな」
不意に、身体が重くなる感覚が、肩から全身に駆け巡る。
倒れることはない。息苦しさもない。
しかし、立ち尽くしたまま、指一本動かせない。
「な……が……」
懸命に口を動かそうとするが、呂律が回らず言葉にならない。
一体自分の身体になにが起きたのか、これからなにをされるのか。
思考だけはめぐるましく回り、待ち受ける可能性が浮かんでは消える。
「一時的に動けなくなっただけだ。すぐに切れるし、害はない」
男が何事か話しながら、ユウの前で手をかざす。
今まで気付かなかったが、男の手には手袋がはめられていた。中央にはやはり機構のシンボルマークが記され、その周りを無数の文字列が取り囲んでいる。
「『
男の声に応じるように、目の前に四角形のモニターらしきものが出現する。
画面は暗く、中にはなにも表示されていない。
続けて、男がそれに向かって手を伸ばす。
手と画面が触れるほどの距離まで接近すると、画面に光が灯る。
同様に、手袋に描かれたマークも光を放っている。
すると、画面内に人型の図形が浮かび上がる。
ユウの輪郭に沿って表示されており、まるで型を取ったようである。
図形の周りには、彼に関する様々な情報が表示されている。
「起動完了。うーん、少し変わった配列になっているが、やっぱり普通の人間だよな。最初は
画面を眺め、男がぶつぶつと呟いている。
ユウからは丁度裏になっているため、なにを見ているかわからない。
内容からして、自分に関することだというのは辛うじて理解できた。
「なんで生かしたのか疑問だったが、ただ焦っていただけかもな。封鎖されたことには気付いていただろうし、逃走を優先したのかもしれない」
「……、……」
「わかってるよ、この少年は白だ。さっさと済ませる。もう許可は出たか?」
独り言かと思っていたが、よく聞くと男は誰かと話しているようである。
見えないだけで、おそらく耳かどこかに小型の通信機が付いているのだろう。
「さて……悪いな。きっと怖いだろうけど、もうすぐで終わるから安心してくれ」
会話が終わると、男はユウのほうに向きなおる。
安心しろと言うが、できるはずがない。身動きが取れず、これからなにをされるかも不明なのだ。
恨めしそうな表情から言いたいことを察したのか、男は笑いながら説明する。
「大丈夫だ、危害を加えたりはしない。ただここで見たことを、忘れてもらうだけだ」
それのどこが危害でないというのか。
抗議したかったが、何度試そうと声はかすれ、言葉を発することはできない。
構わずに、男は一人で話を進めていく。
「本当はもっと早く済むはずだったんだが、ここがエラーポイントだったからな。範囲を指定するのに手間取っちまったんだ」
男は手を合わせて形だけの謝罪をするが、ユウにとって重要なのは時間のどうこうではない。
苛立つ彼と反対に、男はどこまでも淡白で、冷ややかだ。
なにやら画面を弄りながら、ユウには目もくれない。
「天原東駅のときみたいに人数が多いとやってくれるけど、一人だけだと、こっちでやらないと文句言われるからな」
ユウに話しかけている間も、男は手を動かし続けている。画面で操作を行っているようだが、覗き見ることも叶わない。
男が手を止める。そして、ようやくユウと目を合わせると。
一際さわやかな笑顔で一言。
「それじゃあ、そろそろお別れだな。次に気が付いたときは、いつもの日常だ」
そのまま、再び画面に向けて手をかざす。
先ほどよりも強い光が、手袋のマークから放たれる。
「待っ……」
止めさせようと、無駄だとわかっていても声を出そうとするが、その前に。
眩暈にも似た感覚が、ユウを襲う。
頭がくらくらして、身体が固まっていなければ倒れ込んでしまいそうである。
脳内では、絶え間なく神社での記憶が浮かんでは消えて、濁流のごとく駆け巡っている。
彼が知るはずもなかったが、それが記憶を消され、代わりの記憶で補われる感覚だった。
「貴重な情報ありがとう。帰り道は気を付けろよ」
男の声も、どこか遠くに聞こえる。
瞼を開くのも段々とつらくなってきて、目を閉じてしまう。
視界とともに、意識も再び暗転してしまいそうになる。
(意識を保つんだ。腹にしっかり力を込めて、全身を繋ぎ止めるように)
再び、どこからともなく声が響いてくる。
男と話しているときもそうだったし、その前にも聞いた気がする。
この声はなんなのだろう。自分の内なる声だとでもいうのか。
疑問は尽きないが、言われたとおり、全身に力を込める。
おぼろげな意識では、本当に力が入っているかもわからない。とにかく、ひたすらそれだけを意識し続ける。
霧散しそうな意識を、肉体に必死に留める。
声も、音も、光も感じない。ただ必死にこらえて、耐える。
(もう大丈夫。よく頑張ったね)
何秒、あるいは何分経ったのだろうか。
また声が聞こえた気がして、ユウは力を抜く。
ふらつきも大分治まっている。意識が消えそうな感覚も、今はない。
気が付かなかったが、周囲から喧噪が聞こえる。
騒ぎに気付いた周辺の住人が駆けつけてきたのだろうか。
もう目を開けても大丈夫だろう。
瞼を上げると、視界に光が戻ってくる。
その先には、倒壊した八十神社が――
なかった。
あの男がいないのは想定内だ。
しかし、崩れ落ちた本殿も、えぐれた地面も見当たらない。
それどころか、周囲は老若男女で賑わい、騒ぎを微塵も感じさせない。
向こうには、マンションの立ち並ぶ住宅街が見える。
ここは、八十神社ではない。
後ろを振り向くと、そこには先端から光を放つ、錐状の塔。
見間違えるはずもない。この塔も周囲も、向こうの住宅街も、ユウにはよく見覚えがある。
一坂東駅。
毎日のように利用する最寄駅。その中に、彼は唐突に移動していた。
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