番外編
番外編1【告白】
本編読了推奨。高校進学後の夏。
「朝比奈」
唐突に声をかけられた時、美緒は蛇口から出る水で顔を濡らしてタオルで拭いていた。夏休みを利用した半日に及ぶ部活が終わり、流した汗が少しでも冷えて流れ落ちるのは心地よく、ほっと一息をついていたところ。そこにやってきた声は緩んだ表情をした美緒とは逆に緊張に強張っていた。
顔を上げてタオルで顔をごしごしと拭いてからタオルを外す。まだ前髪に残る滴をタオルで髪をかきあげて視界を確保した先には、同級生の男子が立っていた。自分より頭一つ大きい体。筋肉もついていて、強烈なスマッシュを中心に試合を運ぶシングルスプレイヤー。自分の知っている人物と良く似ていて、たまに視線を向けている。それでも、ここまで近距離で話したことは少なかった。
「どうしたの? 叶君」
名字を呼ぶと、立っている男――叶の顔が赤くなった。自分の名前を美緒が呟くだけで照れているのかもしれない。名前を呼ぶだけで頬が熱くなるようなシチュエーションに美緒は思い至るものがあった。反射的に足を一歩下げると、叶は逆に意を決したのか前に出て告げた。
「俺、お前のことが好きなんだ」
人生で『二番目の告白』は美緒も恥ずかしさに頬を赤くする。美緒の動揺に好機を見いだしたのか、叶は言葉をたたみかけた。
「四月に高校入って部活で一緒になって。ほぼ一目惚れだったんだ。バドミントンも強いし、勉強も学年で十番以内だろ? バドミントンやってて勉強もできるとか、すげぇし……そんな朝比奈と、もっと一緒にいたいんだ。付き合って欲しい」
自分の評価を他人から聞くと更に恥ずかしさが募る。
自分が他人から見て異性にモテるタイプだと中学三年生の時に聞いたことがあるが、本当かどうかは分からなかった。美緒の狭い世界では結局、こうして言い寄ってくる男はいなかったのだ。
たった一人を除いては。そのたった一人は今のところ、美緒の最愛の人になっている。
「あ、えーと。叶君」
自分の呼びかけに視線を強く向けてくる叶から一度、目を逸らして深呼吸をする。落ち着くのを待っているのか、叶は全く動かずに美緒の次の言葉を待ち続ける。力づくで試合の流れを持っていこうとするプレイスタイルから性格も強引かと思いきやそうではないようで、美緒は自然と動悸が収まってきた。ようやく言葉を発せられる状況になったところで、美緒は鋭く息を吐き、短く告げた。
美緒の中ではダブルスでショートサーブを打つ時の緊張感に似ていた。
「ごめん。私、彼氏いるんだ」
「え、嘘……」
美緒の言葉を即座に否定する叶。その反応も仕方がないと美緒は思う。元々彼氏は違う学校で、練習と勉強をしていれば街で会うことも少ない。
叶の気持ちも分かるため、嘘ではなく本当だと信じてもらえるように順番を追って説明していく。
「中学三年の時にね。同じ部活の人と付き合いだしたんだ。高校は別々になったけど、地元から一緒に通ってるし。まだ続いてるの。皆には、恥ずかしくて特に言ってなくて。だから、自分から伝えたのは叶君が初めて」
「そ、そうなんだ」
「うん。だから付き合えない。ごめんね。できれば、私に彼氏がいることは黙ってて欲しいな」
美緒の言葉に弱々しく頷いて、叶はふらつきながら離れていく。体育館は既に片づけられていて、残っている部員は更衣室で着替えていたり、既に校舎から出ている頃だろう。反対方向に来ている美緒と叶の間に何があったかは、叶が口を開かなければ分からないはずだ。だが、美緒は広まってしまっても仕方がないとも思った。
(ふられた理由も冷やかされそうだし。ばれても仕方がないかもね)
絶対に隠さなければいけないということもないため、美緒は今の状況を割り切って頭からタオルを外した。ぼさぼさになった頭を手串で整えると着替えるために更衣室へと戻っていった。
火照った体の熱さは、練習の結果や夏の暑さだけではなかっただろうが、あえて意識から外していた。
* * *
学校での出来事からすんなりと時間は過ぎ、ラケットバッグを足の間に置いて座り、美緒は夢うつつで背もたれにもたれかかっていた。地元へと進む電車内は夏休みで平日の十六時頃ということもあってか、人はまばらだ。同い年の学生は部活をしたり、友達と遊んだり、デートをしているかもしれない。そんな中で、部活を終えて寄り道をせずに家に帰る自分はどう映っているのかとたまに気になることがある。
(特に気にはしてないつもりなんだけど)
普段ならば他者と自分を比較することは美緒はしない。中学生の間も自分の道を突き進んできて、中学三年の夏に初めて恋人ができた。その時もお互いを尊重して、自分の進み方は自分で決めてきた。
他者を考えるのは、叶からの告白が影響しているだろう。
高校に進学してから四ヶ月が過ぎて最初のインターハイを終えた。三年生が引退した後で朝比奈美緒は一年生にして既に次代のエースとして部内に地位を確立しつつある。結果として練習に時間や意識を割くことが多くなり、しかし学力も一定以上必要であるため残りの時間は勉強に当てられる。クラスの友達とテレビドラマや音楽の話で少し差を感じることもあった。
寂しくないというわけではない。しかし、自分の選んだ道を進むのに必要な孤独に耐えられたのは、恋人の存在があったから。その恋人とも、最近は少しすれ違いを感じていた。
地元が一緒だからと行き帰りは一緒に帰ろうと決めてはいたが、朝練の時間や通常の部活の終わりの時間がずれたりと互いの部活にはかすかな差があった。最初はどちらかに合わせていたものの、練習の厳しさに体力が削られていつしかできるだけ直前まで休息するようになり、その分、互いに時間を合わせて行動することが減った。互いに自分達の学校で頑張ることが最優先。恋人でも、互いに寄り添うというよりは良きライバルとして切磋琢磨していきたい。そう考えて、納得した上で時間の調整を止めてしまった。代わりに電話やメールを遣って会話をしようということにしたのだが、それも上手くいっていない。
(メールくらい返してもいいじゃない)
スマートフォンの中には自分の送信メールだけが貯まっていく。毎日一回は送っている美緒に対して相手からのメールは数日に一回程度だ。内容はメールに気づいた時間帯が遅くなって返せず、そのままタイミングを失ってしまってという謝罪から入り、まとめて話題への返答が返ってくる。だが、既に自分が送った話題の賞味期限は切れてしまっていて、いまいち返答に対して反応する気がおきなくなる。
相手もまた自分の部活内でエースの立場をもぎ取ろうと頑張っていることは分かっていた。状況を考えて、美緒も必要以上に連絡を取ろうとすることは止めていたのだが、どうやらストレスが溜まっているらしい。
「やっぱり、難しいのかな、遠距離って……中距離だけど」
中学を卒業する前に親友に言われたことを思い出す。離れてしまうのは寂しくないかという問いかけに、通学は一緒にできるし、互いに目標を持って支えていけると答えた。その思いは今も変わらない。
それでも、寂しさは徐々に募っていく。
「修平の馬鹿やろー」
相手への不満を小さく呟くと少しだけ気分が晴れる。だが、次の瞬間にスマートフォンが震えたことで美緒はびっくりして取り落としそうになった。
「わっ!? とと……あ」
落とさずにすんでほっとすると、次に目に飛び込んできたのはメールのタイトルと差出人。ちょうど頭の中を占めていた相手からのメール。ゆっくりとボタンを押して開くと、短い文面が綴られていた。
『今、帰りの電車乗ってるんだけど、地元で会う時間ある? 久々に会いたいんだ』
とっさに周囲を見回すが、該当する人物はいない。どうやら別の車両らしい。美緒は心臓が少し高まるのを感じていた。同じ電車にいるという事を知っただけで傍にいるような気がしている。先ほどまでの不満が押し流されていくのに呆れつつ、返信する。
『私も乗ってるよ。会おっか』
送信し終えて、いつしか体の倦怠感もなくなっていることに美緒は気づく。ストイックにバドミントンの実力を上げることに集中しているかと思っていたが、やはり違うらしい。自分にとっての遊佐の存在の大きさを改めて考えると心が温かくなっていくような気がしていた。
(ごめんね、叶君。修平には勝てないね)
身近にいる男子と少し離れた恋人を比べると、やはり後者を取るだろう。過ごしてきた時間もあるが、美緒と共に切磋琢磨してきた遊佐はバドミントンでも、異性としてもそう簡単には越えられない。
遊佐への思いを改めて認識していると、車内の扉が開く音がして足音が聞こえてきた。ゆっくりと振り返ると、少し息を切らせている男子がいた。実際に顔を見るのは一ヶ月ぶりくらい。大会の会場で顔を合わせた時以来だった。
「よ、よぉ。久しぶり」
「うん。久しぶり」
火照った顔を隠せずにいる遊佐の様子を見て、胸の奥から愛おしさがこみ上げてくるのを押さえながら、美緒は座席に座るように促す。向かいに座った遊佐を見ながら、話す内容を考える。
(やっぱり楽しいな。こういうの)
話題を探すことも、会話をすることさえも楽しく思いながら、美緒は地元の駅に着くまでのしばしの間、遊佐との会話を楽しむ。穏やかな空気に包まれながら。
「実はね」
「ああ」
「別れちゃうのかなって心配してたんだ」
冗談半分、本気半分の告白に遊佐は慌てて顔から汗が噴き出した。何かを言おうとするも動揺して口をあうあうと動かすだけ。その様子がおかしくて笑ってしまったが、すぐに真顔で言った。
「でも、やっぱり会うと好きだなって思う」
「……さ、サンキュ」
何を言ったらいいのか分からずにとりあえず礼を言うところも含めて、美緒は遊佐を改めて認識する。今後はもう少し、また一緒にいる時間を増やそうか。練習にも慣れてきて出来た余裕をまた遊佐との時間に使いたい。何を言おうかと頭の中は試合中のように高速回転して会話のための言葉を考えていく。
久しぶりに訪れる穏やかな時間を胸に刻みながら、電車の揺れに身を任せていった。
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