番外編2【始まり】

本編読了推奨。十二話と十三話の間。




 シャトルが自分のラケットの先から半歩分ずれて、コートへと突き刺さる光景がスローモーションに見えた。極限まで集中力を増している状況だとそういうことが起こると聞いたことがあるが、おそらくは逆に体力が限界だったことが原因だろうと、冷静に美緒は考える。シャトルが落ちて、試合が終わった直後は立ち上がることができず、切れ切れになる息をどうにか繋いで酸素を体内へと取り入れていた。すぐに動こうとすれば意識を失ってしまうように思えるほど、体は休息を欲している。


(でも、立たなくちゃ)


 自分を負かした相手へと敬意を忘れずに。美緒はきしむ体をゆっくりと起こして立ち上がった。ネットを挟んだ向かいには心配そうに自分を見つめてくる相手がいる。最後に姿を見た小学校六年生の頃からだいぶ成長して雰囲気も変わった相手。大会前に写真は送ってもらったが、やはり印象が違った。しかし、彼女は間違いなく再会と再戦を待ち望んでいた相手なのだ。

 少しふらつきながらも前に歩き、ようやくネット前まで歩を進めると、相手――矢沢亜紀は涙目になっていた。勝った側とは思えない表情に美緒は笑みを浮かべて手を差し出した。


「ありがとうございました」

「……ありがとう、ございました」


 掴んだ掌は柔らかく。美緒は心の内にあった氷が溶けていくのを感じる。

 インターミドル全国大会。

 朝比奈美緒。二回戦敗退。

 それでも美緒の心は晴れやかだった。全力を出して、ギリギリの戦いをすることができたことで結末を受け入れるのに十分なものをもたらしてくれたのだから。


「歩ける? 美緒」

「うん」


 自分を気遣う亜紀の声。小学生の頃から二年半の歳月の間に、甲高かった声は少し落ち着いていた。声変わりと言うことはないとしても、精神的な落ち着きと共に声も大人びたのかもしれない、と思うと美緒はまた笑った。


「後で、少し話したいんだ。いい?」

「……うん。私も、たぶん友和も話したいと思ってるよ」

「私もね」


 第三者の名前。その名前は以前の自分なら動揺してしまうものだった。しかし、紡がれた今、美緒は全く自分が動じていないことを悟る。

 自分の大事な場所にいた二人が横へとずれて、代わりに新しい人がそこへ立っている。顔ははっきりと見えていた。

 今の朝比奈美緒にとって最も大事な人間が他にいる。これまで自分を導いてくれた友達。そして、今後一緒に進んでいく大切な人が自分の中にいる。改めて過去と向き合うことで、はっきりと自覚できたことが嬉しかった。


「じゃ、後でね」


 コートから出て亜紀と美緒は逆方向に移動する。ラケットやタオルを入れたラケットバッグを背負うだけでどっと疲れが出るが、各コートで行われている試合の邪魔にならないように歩いていく。歩いていく先には顧問として帯同してきた庄司の姿。壁際で美緒が傍まで来るのを待っていた。


「お疲れさん」

「……はい。でも、二回戦で終わってしまって残念です」

「勝負は時の運もある……が、あれだけの試合ができたんだ。朝比奈も今後に生かせばいい。皆が、そうしてきた」

「はい」


 亜紀と離れたことで感情を素直に表現できるようになったということか、悔しさに視界が霞む。


「今日はこれから自由時間だ。試合観戦をするのもいいし、ゆっくり休むといい。体育館からは出るなよ? 反省は、ホテルに戻ってからやろう」


 庄司は肩に手を置いて労いの言葉をかけると、その場を離れていく。美緒は潤む目をこすって涙を拭くとフロアから外に出た。ラケットバッグを置きたいと思っても、いつもと違って全国大会には一人と引率教師一人で来ているため、一般客とあまり変わらない。自分達のスペースと言うのはなく、持ち歩かないと行けない。


(まずは、水分補給かな)


 試合の熱気から隔離された体育館の共用部分。空いている窓から風が入り込んでいるのか、汗で濡れた髪の毛を撫でるように触れる。夏の、体にまとわりつく暑さを含んだ風だったが、それでも火照った体にはちょうどいい。少しだけ歩く速度を上げて、美緒は自動販売機の前に到着するとスポーツ飲料を取り出した。だが、握力が戻りきっていないのか取り落としてしまい、転がっていく。


「あ、っとと」


 慌てて追おうとして転びそうになるのを堪えたところで、ペットボトルが誰かに拾われていた。


「あ、すみませ――」


 慌てて顔を上げて拾ってくれたことに礼を言おうとして、美緒は動きを止めた。ペットボトルを持って立っているのは自分よりも頭二つは身長が高い男。自分の周りでもここまで高い身長の男子は見たことがない。だが、自分を見下ろしてくる表情は知っているものだ。知らないように見えた顔。しかし、目元や口元などほんの少しずつ、昔の面影が残っている。


「友、くん」

「久しぶり、美緒」


 どこかぎこちない笑顔で杉村友和はペットボトルを差し出してきた。美緒も右手を出して受け取るが、その際に手が触れてしまう。友和は慌てて手を離したが、美緒は驚くほど冷静な自分を自覚した。


(昔の私なら、もしかしたらドキッとしてたのかもね)


 淡い思いを抱いていたはずの自分は、もうこの場にはいなかった。約束に悪い意味で縛られて苦しんでいた朝比奈美緒はもういなくなり、純粋に全国大会を楽しんだ。そして、楽しみ終えた後には新しい何かを得るための場所が開く。

 まずは、その一歩。


「友くんは、バドミントンやってないんだ」

「ん、ああ。実は、な」


 友和が部内のいじめによってバドミントンを辞めたことを、美緒は亜紀から聞いていた。だが、亜紀と美緒の応援にいくと言ってくれたと嬉しそうに語っていた。おそらくは二人の勝負も見届けたに違いない。亜紀の話では、バドミントンの単語を聞くだけで嫌な気分になるほど落ち込んでいた時期もあったらしい。過去の陰鬱な思い出から解き放たれたのは自分だけではなく、友和もなのだろう。おそらくは、切磋琢磨してきた二人がいなくなった亜紀も何らかの辛さを乗り越えたに違いない。誰もが何かを乗り越えていて今があるんだろうと美緒は素直に思うことが出来た。

 二人はどちらからともなく歩きだし、休憩スペースにある椅子へと腰をかけた。少しの間、互いに無言だったが耐えきれなくなって先に口を開いたのは友和だ。


「二人とも本当に強くなったよな。俺がもし現役だったとしても勝てないよ」

「分からないよ。凄く背、伸びたもんね。そんな身長からスマッシュ打たれたら取れないんじゃないかな」

「これ、実は中三になって一気に伸びたんだよね。てか、まだ伸び中」

「バスケット部なら、センター安泰だね」



 辛いバドミントン部から逃げた先のバスケットボール部に光を見つけて、活躍していることも亜紀から聞いている。

 友和に関しての情報は全て、全国大会に出場が決まった後に亜紀から聞いた情報だった。当初、友和は連絡をくれずもっぱら亜紀とだけ旧交を深めていた美緒は、理由も何となく察している。

 そして、美緒はその理由を取り除きたかった。


「ねえ。単刀直入に言うけど」

「なに?」


 聞き返す友和の表情からも、美緒が何を言おうとしているのか察している様子が伺えた。美緒は迷いなく告げる。


「バドミントン辞めたからって、もう私に負い目感じなくていいよ」

「……そうかもしれないなって思ってた。今、話したら」

「そうそう。別にバドミントンやってるから友達ってわけじゃないんだし。でも、今だからだね」


 自分の台詞で美緒は吹き出しそうになった。彼らとの約束を守るために全国を目指して実力だけを求めていた時は、バドミントンでプラスになる人だけに心を許していた。バドミントンが中心で部活の仲間やクラスメイトは円滑に学校生活を進めるためだけの関係だと最小限の触れ合いしか、してこなかった。そんな自分にもし友和が「バドミントンを辞めた」と言ったなら、きっと怒っただろう。絶交宣言までしたかもしれない。そういう意味では友和の選択は正しかったと言える。


「転校した初めの頃の私なら、きっと友君と絶交してたかもね」

「美緒もだいぶ印象が変わったよな。なんていうか、柔らかくなったって言うか、綺麗になった」


 誉められて頬が赤くなる。だが、それも単純な照れであり、甘酸っぱく胸が締め付けられるようなことはない。もう、その思いをくれる人は別にいる。現実を目の前に提示されて、美緒は少しだけ寂しく思えた。過去の思いは確かに無駄ではなく、埋もれるのではなく整理されて、胸の奥へとしまい込まれる。

 友和に抱いた思いは、もう大事な宝物として置いておくだけ。


「知ってただろうけどな。俺、お前のこと好きだったんだぜ」

「好きだったってことは今は違うんだよね」

「ああ。彼女、いるよ」


 友和は携帯電話のディスプレイに表示させている女子の写真を見せてきた。ロングヘアーで色は白く、運動よりも読書が似合いそうな女子。美緒や亜紀とは系統が違うのは美緒にもよく分かる。


「バスケット部のマネージャーでさ。中二からバスケットの試合に出られるようになってさ。その時から応援してくれるようになって」

「ふーん。確かに友君モテそうな男に成長したもんね。いいんじゃない?」

「……ああ。俺も吹っ切れたよ」

「私も。好きな人、いるんだ。同じ部活の男子」


 友和と対比することで初めて明確に自分の気持ちを示す。

 それは、二人の間での儀式。どことなく中途半端になっていた思いをはっきりとさせて、今後、新しい友達の関係を築いていくためのやりとり。距離が離れて、別の時間を生きて。それぞれで別の人生を歩んでいる。

 今は完全にとはいわないが、すっきりとした気持ちになる。余裕は考えを深くして、別の方向に動く。


「そういえば。亜紀って誰かいないの?」

「いるみたいだぞ? 俺も相談されたりするからな。告白したかは分からないけど」

「そうなんだ。上手く行くといいね。友君もちゃんとアドバイスしなよ?」

「そこは美緒も協力をお願いします」


 二人の間に固まっていく関係。小学校時代の親友というカテゴリーがはっきりしていくと共に会話が弾んでいく。バドミントンという繋がりが無くなっても続いていく会話。

 美緒は、これこそが自分が再び手に入れたかったものだと思った。


(そうなんだ。私が意地を張ってただけで。少し踏み出せば、また取り戻せるんだ)


 今後も違う時間を三人は進んでいく。ここでまた繋がりを持っても高校、大学と進む内に別々の道に進んでいくのかもしれない。


(もし離れて、連絡もたまにしか取らなくなるかもしれなくても。いいんだ。こうして私は、取り戻したんだから)


 自分という檻を開いた先に待っていてくれた二人。もし二度と会うことがないとしても、この全国大会の日を美緒も、亜紀も、友和も忘れないだろう。そう確信できる。


「あ、二人とも先に話してたんだ」


 第三者の声に視線を友和と同時に向ける。視線の先には亜紀がラケットバッグを背負って立っていた。試合の間に縛っていた髪の毛をほどいていて、背中へと落ちる間に段が付いている。


「亜紀。お前もう少し気をつけたらどうだ?」

「バドミントンやってるところでおしゃれしても仕方がないでしょ」

「最近の実業団の選手って綺麗だろ? やっぱりスポーツしててもさぁ」

「私は私だしー」


 友和と亜紀の会話は、美緒と友和のものよりも少しだけ柔らかく、近い。美緒と異なり、友和に彼女ができてからも友達づきあいは続いているのだろう。それでも、三人がいる空間の空気は、美緒の中に心地よさを生み出す。暖かさに気が緩んで、視界が揺らめいた。


「美緒?」

「あ、ご、ごめん。なんか嬉しくて」


 亜紀が不安な声音で話しかけてくる。美緒は自分の瞳から涙がこぼれていくのを止められなかったが、笑顔だけは崩さないようにして二人へと顔を上げる。もう顔を背けることも俯くこともしなくていいのだという思いは、やがて努力しなくても自然と表情を笑みの形に変えていく。


「亜紀。試合終わったら……もっと話したい。時間とってくれる?」

「もちろんだよ! 二人が応援してくれたら優勝までしちゃうから!」

「なら亜紀にはなんかおごらないとな」


 二人から三人。小学生から時間が流れて、成長した三人。

 ここから、また三人の新しい時間が始まる。

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