第十話【新しい世界】
相手の手を握った時に自分の握力がかなり低下しているということを美緒は自覚した。岡田から握り返される強さが心なしか自分を気遣って少なくしているように思える。
美緒の瞳には岡田の表情が大きく映っていた。美緒に対しての悔しさと、精一杯やった自分をねぎらう気持ちが混ざった複雑な表情を浮かべている。美緒自身も、きっと安堵と疲労が濃い表情をしているのだと思っていた。
「強かった」
その言葉は自然と口から漏れた。勝者が敗者に対して送る言葉ではないのかもしれない。そう後から思っても、漏れた言葉には思考以上に意味があるのだと美緒は考える。
美緒の感情から生まれた言葉に、岡田は頷き、手を離しつつ答えた。
「次は、勝つから」
岡田がネット前から離れるのを見送る形になった美緒は、ゆっくりとコートから出るために足を動かす。足に痛みはなかったが、とにかく力が入らない。痙攣している左足を引きずるようにしてコートからようやく出ると、置いてあったラケットバッグのチャックだけ閉めて持ち上げる。左手にラケットを持ったままで、入れることはしない。入れるためにしゃがまなければならず、そうしたら立ち上がれない自信があった。
チャックを閉める直前に、中に入っている色紙がまた一瞬だけ視界に入ったことで、美緒は頬を緩めていた。
(ありがとう……みんな)
肩にラケットバックを背負ってゆっくりとフロアを横切っていく。
その間にアナウンスが流れ、決勝は一時間後と告げられた。その数字が自分にとって吉なのかどうか考えようとするが、頭の中で思考の欠片が集まらない。視界も薄くなりかけていることに気づいて、美緒は意識して深呼吸を試みる。新鮮な空気を、体力をできるだけ使わないように、取り入れる。内蔵の一つ一つが徐々に活性化していくような錯覚。その間も出口にはゆっくりと進んでいたが、回復した視界に、見覚えのある大きな体が見えた。
「遊佐……」
扉のところに立つ遊佐は顔を不安で暗くしていた。美緒の足の様子が心配なのだろう。心配ないということを示すため、少しだけ歩く速度を上げた。そうするとすぐに入り口まで到達し、遊佐の前に立つ。
「大丈夫。なんとか、勝った――」
最後まで言葉を言うことができず、美緒はその場に崩れ落ちた。
(――あ、れ。なんで?)
自分が思う以上に消耗していたことにも驚いたが、今の疑問はそれよりも、体が落ちる途中で止まっていることだった。前を見ると、見たことのある柄が目の前に。そして、脇には手が差し込まれている。誰かに抱き止められて、支えられているのだ。
誰かとは、一人しかいない。
遊佐が自分を抱き止めているということを認識すると、頬が熱くなった。早く今の状態から逃がれるために遊佐から体を離そうとした時、更に体勢が変わった。
「きゃっ……え!?」
遊佐は左腕で美緒の背中。右腕で両足の膝裏を支えて抱き上げていた。いわゆる「お姫様だっこ」の状態だ。とっさに周りを見るとちらほらと人が見える。皆、一様に遊佐の大胆さに驚いた顔をしていた。
「ちょ……まっ……遊佐。恥ずかしいから止め――」
「そんなこと言ってる場合か!」
遊佐の一喝に何も言えなくなり、美緒は遊佐の顔を見上げるだけになった。そのまま遊佐は移動して、死角になる場所にある椅子へと美緒を座らせる。それから左足を持ってマッサージを始めた。ベスト8の試合の後、同じようなシチュエーションでマッサージをしてもらったことが美緒の頭の中に思い出される。
その時と同じく遊佐の真剣な顔を見下ろしていているが、前と違うのは今の方が明らかに緊張しているということ。遊佐が自分を心配している思いが直に伝わっているような気がして、急に気恥ずかしくなっていた。
「大分痛んでるかな……でも、あと一試合なら、なんとかなるかな」
「……なんとか、なる?」
美緒の言葉に顔を見上げる遊佐。視線があったことで更に心臓が跳ね上がったが、遊佐はそれに気づかない。大丈夫、と一言だけ呟いて左足に視線を戻す。
「絶対、俺が何とかしてやるよ」
マッサージを再開した遊佐。その様子を見下ろす美緒は、気まずさを紛らわせようと言葉を探す。試合直後は全く考えられなかったが、座って楽になったことや時間が空いたことで欠片が繋がる。
まずは会話のきっかけを掴もうと言葉を紡ぐ。
「……上手いんだね」
遊佐は手を止めて美緒を見上げる。その顔は、先ほどと違って呆気にとられた顔をしていた。その意味が理解できない間に遊佐は顔を下ろす。
「ああ。怪我はやっぱり怖いからな。本とか読んで、どうマッサージしたら楽になるかとか研究してる」
「へぇ……私なんて全然考えてなかった……。よく右足首怪我してるのに」
そこまで会話をして、美緒は不思議な感覚に覆われた。まるで一度、同じ会話をしたことがあるような記憶。
すぐに、それが最初にマッサージをしてもらった時のものだと思い出した。同時に遊佐が呆気にとられた表情をした理由も分かった。
(恥ずかしい……どれだけテンパってるの? 私)
そこから言葉も出ず、美緒は黙ったままマッサージを受ける。遊佐もしばらくは無言でただマッサージに集中していた。その甲斐もあって、左足が楽になっていくのを美緒は感じる。
「これなら、次も大丈夫な気がする……ありがと、遊佐」
「どういたしまして」
遊佐は笑みを浮かべて答える。美緒の発言にも特に言ってはこない。今の美緒の状態を把握しているからだろう。そこで出来た余裕と、時間を持たせるための繋ぎで、美緒は自然と口にしていた。
「遊佐は、どうだった?」
「俺はまだ試合してないよ。もう少しでベスト4の試合」
美緒は一瞬考えたが、遊佐が説明を初めたことで納得する。
ベスト8の試合は長引いたところが多く、各選手が休息の時間を取る必要があったため、全体的に進行を遅くした。よって、次に行われるのは女子の決勝と男子の準決勝なんだと補足される。タイミングとしては男子の準決勝が早く、女子の決勝とは入れ子状になる。
全国行きを決めた美緒に対して、次に遊佐が全国行きを賭けた戦いに挑む。本来ならば自分のことを考えてコンディションを整えなくてはいけないにもかかわらず、美緒のケアをしている。そんな遊佐に申し訳なく思い、美緒は頭を下げた。
「ごめん。遊佐も次は大事な試合なのに」
「そうだな。だから、こうしてパワーもらってる」
「どういうこと?」
遊佐の言葉の意味を把握しかねた美緒が尋ねると、遊佐は照れ笑いをしつつ答える。
「こうして好きな奴の役に立てるだけでパワー充電出来るからな」
見下ろすような体勢になっているため、遊佐の顔が見えなくてよかったと美緒は思う。遊佐の言葉を聞いて顔が火照り、恥ずかしさに何も言えなくなる。ふと、誰かに聞かれていないかと辺りを見回すが、誰もいなかった。
「ぃよし。これでOKだろ。後は決勝までゆっくり休めよ。俺の応援なんていいから」
「それは駄目だよ。だって、応援してもらったでしょ? 私だけしてもらうなんて、ずるい」
「ずるいって……まあ、いいよ。俺も朝比奈に応援してもらえば百人力だ。絶対勝つよ」
そこまで話したところで、アナウンスが聞こえる。遊佐の出番とコートを告げるそれを聞いて「行くか!」と気合いの入った声を出して遊佐は立ち上がる。置いておいたラケットバッグを背負い、美緒の顔を見る。
「応援してくれるなら、頼むよ。でもすぐはいらない。もう少しここで休んでいけよ」
「うん。分かった。頑張ってきて」
美緒は素直に頷いて手を振り、遊佐は満面の笑みを浮かべて駆け足で去っていく。その後ろ姿を見送ってから美緒はベンチに体を倒した。左肩を下にして横倒し。足の痛みが取れたのは本当だが、その分、気が抜けて体の力が抜けてしまったのだ。脱力した体を無理に起こそうとせずに、深く息を吐く。
(疲れた……でも……私……)
頭の中で考えることさえも途切れる。美緒は目を閉じて今度は浅い呼吸を繰り返す。睡眠に入る時のような呼吸。体力の消費を押さえ、回復を狙う。
そうすると、またいろいろな光景が瞼の裏に映った。
さっきの岡田との試合。何度も挫けそうになっても自分の精神力で押さえ込み、最後に途切れかけた気持ちを仲間達が支えてくれた。
心のどこかにあった一人で強くなろうと思っていた気持ち。それが消えて、仲間達の声に耳を傾けた。今回の勝利は、間違いなく美緒だけではなく、声を届けてくれた遊佐や部の仲間達のおかげだろう。
次々と思い出される過去の記憶。
一番近いところから、徐々に過去へと。
記憶を遡るほどに、周りの皆との距離が開いていく。今の美緒はそのことに申し訳なく思うが、過去の自分は全く気にしないほどに周りを見ていなかったのだ。
やがて、一番古い記憶。
転校する直前の記憶に辿り着く。
(……顔が、分からない)
瞼の裏に浮かぶ二人。
大切だったはずの二人。それまで、小学校の六年間ずっと親しくしてきた男女。二人の顔が今はぼやけてはっきりしないことに美緒は気づく。改めて考えてみれば、そうなるのは当たり前の月日が流れているのだ。そこで美緒は目を開ける。
消えた二人の代わりに映った、周囲の光景。
体を起こして時計を探すと、壁に掛かった時計が見えた。試合が終わった後の正確な時間は把握していないが、遊佐が試合に向かってからまだ十分も経っていないように感じる。
(そうだよね。もう、二年以上経ってる。きっと、顔も変わってる。私も変わったし。覚えてるわけないんだ)
それでも、自分を騙していた。しがみついていた。それが自分を醜く、過去を辛いものとをしていたのかもしれない。視線を少しだけ広くすれば、仲間達がいつでも声をかけてくれていた。本当ならば、土地が離れていても声は届くはずなのに。
「でも……ようやく約束を、果たせたよ」
口にしたと同時に、目から滴が頬を伝う。
二年と数ヶ月。胸の中にため込んでいた約束。
何度もチャンスを掴んで、何度も弾き返された。
その約束の場所への切符を遂に手に入れた。
「……ぁあ」
起こした上体を壁にくっつけて、美緒は顎をあげて声を漏らす。疲れていた自分の体がほんの少しだけ軽くなったように思う。
それは、心の重さが減ったこと。全国へ行くという強迫観念にも似た思いから解放されたことから来るものだ。更に涙がこぼれていき、泣き声も時折漏れる。しかし、美緒は抑えようともせずに、ただその衝動に任せた。
(我慢しなくていい……今だけは……)
おそらく酷い顔をしているとは分かっている。それでも止めずに美緒は泣く。誰も来ないような場所でも泣き声は聞こえるだろうが、遠慮しているであろう誰かに対して謝りつつ、美緒は泣き続けた。
* * *
泣くのが落ち着いてから美緒はトイレで顔を洗い、タオルで滴を拭き取った。目の周りは赤く腫れており、もうしばらく冷やさないと通常には戻らないだろう。さんざん泣いて気分はすっきりしていたが、表情だけはどうにもならない。
「次の試合までに治るといいけど……」
心配しつつトイレから出て時計を見る。時刻は遊佐が行ってから三十分ほど経過していた。遊佐の応援が決勝進出の原動力となったのは間違いないため恩を返さなければいけないと、美緒は早足で観客席の方へと走る。フロア内への扉を開けてから客席のしきりへ体を預けて遊佐を捜す。すぐに「しゃあ!」と怒号にも似た声が聞こえて発見できた。
少し離れた場所だったため、移動しながらスコアを確認する。
「負けてる……」
得点が18対14で、遊佐は四点のビハインドを背負っていた。今の咆哮は点差があっても気持ちで負けないように気合いを押し出したのだろう。
「遊佐。朝比奈と同じくらいベスト8で苦戦してるから、体力が厳しいのかも」
いつしか隣に来ていた栄塚が、美緒の言葉に返答するように言った。美緒は栄塚の言葉が胸に深く突き刺さる。体力を回復する暇を惜しんで、自分を応援したりマッサージをしたのか。そうなると自分が足を引っ張ったことになるのではないかと考えてしまう。
(そうだとしても、遊佐はそう言わない……なら)
美緒は意を決して大きく息を吸うと、口に手を当てて届くように声を出した。
「遊佐ー! 焦らずじっくり、一本だよ!」
遊佐が自分にしてくれたように。仲間達が自分を支えてくれたように。
今度は自分から、仲間を支える。仲間に感謝しているだけの自分から、感謝される自分に。
本当の仲間となるために、心まで届けと声を出す。
「しゃっ! 一本!」
美緒の声に呼応するように遊佐が声を轟かせる。相手に気合いを叩きつけるようにして、ロングサーブを打ち上げた。相手のスマッシュをクロスで跳ね返し、インターセプトされたドロップをヘアピンで落とす。緩急をつけた攻撃はシャトルをまたコートへと沈める。
「ポイント。フィフティーンエイティーン(15対18)」
「しゃあ!」
「ナイスショット!」
遊佐の咆哮と同時に声を出す美緒。あまりにタイミングがぴったりで、気恥ずかしくなり周囲を見る。栄塚以外は試合に視線を集めていたため自分を見ていないと気づくと胸をなで下ろした。
「朝比奈と遊佐。似てきたね」
栄塚の言葉に美緒は返答しなかった。自分でもそうかもと思い始めていたが、口にするのはよけいな感情が交じりそうだったからだ。
そのまま試合を見続ける。視線の先には遊佐。そのプレイに一喜一憂する。できるだけ支えたいと、美緒はまた声を出す。
「遊佐! 一本!」
過去を乗り越えた美緒の視界には、新しい世界が広がっていた。
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