第九話【最後の扉】

「ポイント。ナインティーンエイティーン(19対18)」


 岡田が放ったハイクリアがアウトとなり、美緒は静かにガッツポーズをしてからシャトルを拾おうとする。だがしゃがむと左足がピリッと痛み、顔をしかめた。手で拾おうとしていたシャトルをラケットで拾い、ゆっくりとサーブ位置に歩みを進めていく中で、息を整えていく。


(あと。二点)


 サーブ位置についてから何度か屈伸を行って、自分に気合いを入れながら足を少しでもほぐそうとする。しゃがみ込む度に左足が悲鳴を上げるが、それでも少しだけ回復する。その少しが、今の美緒には生命線。残り二点を手に入れるための重要なものだ。

 屈伸を終えてから、右足に体重をかけつつサーブ体勢を取り、自分を押し出すように叫ぶ。


「一本!」


 サーブを打った瞬間に、美緒には飛距離の少なさが分かった。シャトルはただ力任せに打てば遠くへと飛ぶわけではない。正しいフォームから正しく力の伝達が行われることで、シャトルは命を与えられて飛んでいく。だが、今のサーブには全く勢いがなかった。美緒は背筋に冷たい汗を流すが、それでも乗り切らねばと中央に腰を落として岡田の次のショットを待つ。今までの打ち回しからして、遠慮なくスマッシュを打ってくると判断し、バックハンド主体で構える。

 しかし、岡田は美緒の構えを見極めたのか、クロスのハイクリアでシャトルを後ろへと飛ばす。完全に虚を突かれた美緒は強引に体をバックさせる。その時、体を突き放すように踏んだ左足に痛みが集中した。


(ほんと嫌なところ突いてくるわね!)


 内心で悪態をつきつつ、美緒はシャトルに追いついた。そこで強引にスマッシュを打ち込む。そのシャトルを岡田は前に落とし、それを追ってまた足が痛む。それでもシャトルを取るために美緒は吼えて踏み込む。


「届けぇえ!」


 シャトルが床に落ちようとしたところにラケットを滑らせる。更にコントロールして、ネットを越えた瞬間に落ちるように調整していた。

 結果、シャトルは岡田の前でネットに触れながら落ちていった。


「ポイント。トゥエンティエイティーン(20対18)。マッチポイント」


 審判が遂にマッチポイントの声を上げる。逆に美緒は上を向いて、声をあげないまま吼えた。

 会心のヘアピン。体力も限界近く、左足の状態も悪い中で、自己最高に近いヘアピンを打てた。それはまだ美緒にも力が残っており、試合の流れも美緒にあると行うことだ。

 シャトルを受け取った美緒はサーブ位置に戻ってからすぐに屈伸をして、足の状態を確認する。終盤、十七点を数えた頃から毎回行っていることで、もう岡田にも他の観客達にも美緒の足の状態が悪いことは伝わっているだろう。

 それでも、このゲームを取った方が勝者だ。もう弱点を隠すことに労力を割く必要はないと、美緒は自分の力の一滴まで攻撃にそそぎ込んだ。

 その結果のマッチポイント。


(あと、一点。一点なんだ……)


 目に入りそうになる汗を拭い、美緒は顔を上げる。もう一度、自分の状態を確認する。

 左足はいつ攣ってもおかしくないほどに筋肉が痙攣している。どのタイミングで痛みがこようとも精神力で押さえ込むと美緒は決めていた。実際に、その覚悟のままで終盤はずっと耐えてきたのだから。問題はない。ほかの箇所は特に痛みはない。残るのは体力の心配だけ。


(だいぶ疲れたけど……あと一点なら)


 あと一点で全国への扉が開く。

 もし決勝で負けたとしても二位で全国に行ける。その先に、果たすべき約束を持つ相手が待っている。今までは届きそうで届かなかった。見えていても、手を伸ばしても、まだまだ距離は遠かった。

 今、美緒の目の前に扉が立っている。

 そこに手を伸ばそうとして、その手が止まった。


(え……)


 目の前に立つのは小学校六年生の自分に変わっていた。

 正確には、その背中に扉がある。ちょうど、自分と扉の間に急に現れた状態だ。


(なんで、邪魔するの?)


 気づけば、小六の自分の両サイドに友達が立っていた。顔は薄暗くて見えない。美緒も目元が隠れてどこを見ているか分からない。ただ、そこに立っているだけだった。さっき見た時は背中だったが、今は正面を向いて、朝比奈の方へと顔を向けている。


(私、あなた達との約束を守るために、頑張ってきたんだよ?)


 幼い美緒も、友達二人も何も答えない。何も語りかけてもこない。

 そこで美緒は気づいた。この三人は、自分を邪魔しているわけではない。ただ、自分がこの三人を負けた理由にして止まろうとしているのだ。

 あと一点で全国が決まる。

 だからこそ、ここで終わることが何よりも辛い。

 今まで何度かはね返されてきた全国へ行くための、最後の扉。最後の一点を前にして、もしも駄目だったならば、こうして精神的に追いつめられたからだと自分以外に理由を付けるために三人が現れた。

 つまり、それは。


(私の中の……弱さ)


 前日から今まで、美緒はその弱さを精神力でねじ伏せてきた。影がよぎる度に前を向き、シャトルを打ち、影を霧散させてきた。それだけでも試合に必要な精神力、そして体力を消費してきたのだ。それがこの終盤になって低下し、更にあと一点という状況による精神の緩みが逆に彼女の弱さの歯止めをなくしてしまった。


「朝比奈さん! サーブしてください!」


 審判に大きな声で告げられて、美緒は我に返る。

 前には扉も幼い美緒達もおらず、あるのはネットと、その先にいる岡田。

 試合をしている体育館の中。誰もが注目して見ているであろう試合の最中。

 美緒は言われるまで、自分が意識を飛ばしていることに気づいていなかった。


「すみません」


 素直に頭を下げて定位置に戻る。今の美緒が岡田や周りにどう映ったのか。

 そこまで考える余裕はなく、美緒はサーブを体勢を取ると静かにシャトルを打ち上げた。


(――!?)


 漫然と。ただシャトルを打ち上げただけの自分を、行動後に自覚する。明らかに場を繋ぐための一打。意志のこもらないシャトルは、岡田の次の一手に絶好の位置へと落ちていく。美緒は諦めずに腰を落としたが、左足の痛みにバランスを崩して膝をついてしまった。


「あ――」


 膝をついてラケットを伸ばそうとした状態のまま、美緒は岡田が打ったシャトルがネット前に落ちていくのをただ見送るしかなかった。


「ポイント。ナインティーントゥエンティ(19対20)」

「しゃー!」


 岡田が歓喜の声を上げた。これまで一進一退の攻防を続けてきた中で、一番の手応えを感じたのだろう。この先、自分からサーブ権が移動することはないと確信したのかもしれない。それほどまでに、今回のラリーは美緒の限界を周囲に悟らせるのには十分だった。

 美緒は明らかに足を痛めている。美緒も痛めていることのみならず、限界だということを周りに知られたと認めざるを得ない。そして、岡田は躊躇なくそこを突いてくる。勝つために相手の弱点を攻めきるのは基本なのだから。そこを躊躇していては、勝利を得ることはできない。


「すみません。顔拭かせてください」


 タオルで顔を拭くジェスチャーと言葉で審判に伝え、美緒はゆっくりとコートの外に出る。足を痛めているのは本当であるため、体力と気持ちを落ち着かせるための時間稼ぎをしても怪しまれない。そう考えながらゆっくりとコートの外に出る。

 ラケットバッグのところについてタオルを取り、顔を埋めながら次にすべき行動をシミュレートしていく。


(相手のサーブ……どちらでもまずは奥に上げて……)

『このままじゃ負けちゃうよ』

(スマッシュを打ってきたらクロスに返して……)

『また約束守れない、のかな』

(ドロップなら……)

『仕方がないよね、足痛いんだし。仕方がないよ。私が弱いわけじゃないんだから。運がなかったんだよ』


 タオル越しに聞こえてくる、自分の声。その声はどこか安堵に満ちている。


『また、守れなかった』

『精一杯頑張った』

『自分は運が悪かっただけ』

『私のバドミントンはここで終わるわけじゃないんだから』

『次に頑張ればいいよ』

(次って、いつ?)


 自分の声に自分で問いかけてしまった。

 高校になれば、また自分の先輩や他の強い選手達が相手になる。最初から負けるつもりで戦いはしないが、正直、厳しい相手がたくさんいる。運も実力のうちというならば、今この時が一番あるはずではないか。今回のチャンスを逃すならば、他のチャンスなど掴めないのではないか。


(私は……どうしたら……)


 視界が歪む。自分が涙を流していることに驚いて慌ててタオルで顔を拭く。

 そして、タオルを勢い良くラケットバッグに落とした時、それが見えた。


「あ……」


 バッグの中からはみ出していたのは、縁が金色に塗られている色紙の一部だった。そこには、部の皆や世話になった先輩達の言葉が書かれている。ホテルで一通り眺めて、とても心地よく満たされた気持ちになったことを思い出す。

 更に耳に飛び込んでくる。強く、自分を奮い立たせてくれる声が。


「朝比奈ー! あと一点だぞ!」


 聞こえてくる声は視線を向けなくても誰か分かった。ベスト8の時には聞こえなかった声。遊佐のしっかりと届く声は、大きすぎて注意されてしまうのではないかと心配してしまうほどだ。


(そうか。そうだよね)


 気づけばどこにも、小六の自分も、友達もいなかった。

 周りには誰もいない。コートには自分一人と相手一人。

 しかし、美緒は自分を包んでくれる人達がいると感じ取れる。

 その場にいなくても、自分と共にいてくれる人。

 その場にいて、静かに自分を見てくれている人。

 少し離れてても声を届けてくれる人。

 全て、自分が歩いてきた道の途中で会った人達。


(私は、本当に。一人じゃ何もできなかったんだ)


 ラケットを握りなおしてコートへと戻る。相変わらず聞こえてくる遊佐の声に背中を押されるようにレシーブ位置に戻って岡田を見ると、先ほどまで感じていたプレッシャーが全くなくなっていた。それはあくまで自分が作り出したもの。自分の前に立ちはだかる自分や友達もまた、作り出された虚像。


「いくよ」


 ラケットを掲げて岡田のサーブに備える。自分の中の全てを解放するように、美緒は咆哮した。


「一本! ラスト!」


 気合いを前面に押し出した美緒には岡田が体を震わせたように見えた。気圧された自分を振り払うかのように「一本!」と叫んで、岡田はロングサーブを打ち上げる。美緒はそれまでとは段違いのスピードでシャトルの下に入り、構えた。

 次に打つべきシャトルは決まっていた。駆け引きなど何もない。自分の全てを込めたショット。


「はっ!」


 美緒は両足をそろえて斜め前に跳躍する。そして落ちてくるシャトルに狙いを定めてラケットを振り切った。シャトルはそれまでの角度より更に急角度で速度を持ったまま岡田へと飛んでいく。

 足を痛めている状況で、更に体力が低下している中でのジャンピングスマッシュ。岡田の頭の中には完全に除外されていたのだろう。放たれた瞬間には動くことを忘れてシャトルの軌道を見ていただけだった。次に慌てて反応したが、すでにシャトルはネットを越えて岡田のコートへと落ちてくる。床につく瞬間にラケットを軌道上に入れて、美緒のほうへと返すことに成功した。

 そして、そこに美緒が飛び込む。


「――ぁああ!」


 ラケットを前に思い切りだしてシャトルに届かせようとする。上体だけが斜め前に出て、下半身は完全に置いていかれている。ジャンプから着地して前に出ようとしたために、美緒の足はほとんど動かない。それでも、その動かない足を必死に前に出して、ネットへ飛び込む。

 コントロールも威力も何にもかも度外視して、ただシャトルを打ち返すためだけに。

 美緒のラケットはシャトルをネットを越えたところでとらえた。勢いが殺されてシャトルはふわりと岡田のコートへと返っていく。岡田も前に出ようとするが、連続した想定外からの攻撃に体が反応せず、硬直する。美緒はその様子を見たまま、体が床へと叩きつけられてしまった。


(お願い……!)


 もう立ち上がる力はなく、祈るだけ。

 そして、美緒の耳に届いたのは床へと落ちるシャトルの音。

 その次には――。


「ポイント。トゥエンティワンナインティーン(21対19)。マッチウォンバイ、朝比奈」


 声に弾かれるように上体を起こす。美緒の視界に映ったのは、ラケットをシャトルへと伸ばしたままで固まった岡田の姿。すぐに体勢を崩してラケットを下ろし、ゆっくりと立ち上がる。表情は徐々に崩れて、瞳には涙が溜まっていく。それを見ながら美緒も震えそうになる体を押さえて立ち上がり、ネット前に立った。

 そこで、客席からまばらに拍手が上がる。それがきっかけとなって広がり、すぐに会場全体が美緒達の試合を讃えた。


(……やったんだ、私)


 美緒は相手から差し出された右手を握りながら、ぼんやりと考えていた。


 朝比奈美緒。準決勝勝利。

 そして。


(全、国、だ……)


 全国大会出場、決定。

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