第八話【委縮】

(……くそ)


 美緒はシャトルを受け取り、羽を整えながらスコアを確認する。

 お互いに一ゲームずつ取った上で、得点は6対1。ようやく一点を返してサーブ権を得たところだ。遊佐にマッサージやテーピングをしてもらってから少しだけ休息し、その後は試合も予定通りに再開した。

 ベスト4の相手は以前にも試合経験のある岡田真衣。小回りの聞く小さな体でスマッシュよりもドライブを駆使し、コートを縦横無尽に駆け回って攻撃してくるタイプだ。ベスト8で対戦した千坂と取ってくる戦術は違えど、コートを広く使ってくるという点では同じ。またしても体力勝負になるのは事前から見えていた。

 以前は美緒の完勝だったが、今はどうなるか分からない。そう思って気合いを入れて臨んだにも関わらず、ファーストゲームを失い、セカンドゲームを取り返したものの、ファイナルゲームでは序盤から六点連続で取られていた。


(足も痛くないし、休んだことでの体のだるさもとっくにとれてる。なら、やっぱり岡田が強くなってるってこと?)


 岡田は無言でただ構えを取る。気合の咆哮を出す力もすべて攻撃に集中させるつもりかもしれない。きっと、それが現状のスコアに表れている。同じ相手との対戦とは考えないように、美緒は深呼吸して改めて構えた。


「一本」


 美緒は静かに呟いて、シャトルを打ち上げた。岡田がシャトルをスマッシュではなくあえてドライブで打ち込んでくる。弾道が低くなった分、インターセプトはしやすい。ストレートに飛んできたシャトルを斜め前に踏み込んでラケットに当てる。それだけでカウンターとなりネット前に落ちていくが、岡田はそこに追いついてクロスヘアピンを打つ。美緒からシャトルを遠ざけるように。


(……うっざい!)


 美緒は切り返してラケットをシャトルへと届かせる。岡田が来ているのは分かっていたが、ヘアピンでネットすれすれに落ちていくように打った。岡田はラケットを下で構えて手首のスナップだけでまたしてもクロスに返した。美緒はネットを越えた瞬間に奥へとドライブ気味に打ち込む。岡田はそれを追い、またしても手首だけで打ち返した。シャトルは綺麗にコントロールされてまたネット前へと飛ぶ。


(ほんと、ウザい……あの手首!)


 今までのラリーで分かったのは、岡田のリストの強さだった。体勢がかなり崩れていても手首だけでラケットを振ってシャトルを打ち、ネット前に返してくる。打ち損じが全くないコントロールの良さ。コート四隅やネット前ギリギリに打ち分ける美緒のコントロールと同じ精度で返してくる。

 二ゲーム続けて真っ向から勝負を挑んでいたが、流石にネット前で競いあうことは分が悪いと素直に認めて、できるだけ奥に返そうという配球に変えたところで、ようやく一点を取ったのだ。


(でも……どこかであのヘアピンやドロップを攻略しないと。厳しいか……)


 相手の得意分野を浸食する。そうしなければ最後まで苦しめられるだろう。試合に勝つために攻略することを明確にして、美緒は前に踏み出す。

 そこで微かな違和感に襲われた。


(――?)


 シャトルにラケットを届かせてロブを上げる。今度はコート奥へとしっかりと飛んだが、美緒は中央に戻りつつ自分の中に生まれる違和感を振り切れない。むしろ徐々に大きくなっていく。


(なに……この……気持ち悪い感じ)


 珍しくハイクリアが打たれ、美緒はフットワークのために右足を大きく後ろに出す。そこでも一瞬、体が止まったかのような気がして移動に集中しきれない。結果、シャトルに追いつくのが遅れたため仰け反るようにしてハイクリアを返す。着地した後で体がふらつくも、ほぼ遅れなく中央に戻る。次にきたドロップにはコートへ落下する直前にラケットを滑り込ませた。シャトルはネット際まで浮いて相手側に越えたところでネットに触れながら落ちていく。これには岡田もラケットを出せず、シャトルは遂にコートへと落ちた。


「ポイント。ツーシックス(2対6)」


 ようやく二点目。体感としてはもう十点くらい進んでいそうだと美緒は思う。それでもスコアは冷静に現状を教えてくる。

 しかし、美緒がそれ以上に気がかりなのは、まとわりつく違和感だ。


(体が、上手く動かない?)


 シャトルを岡田から受け取り、サーブ位置につく間に体の各所を確認する。足首や手首を回すなどすると岡田にも悟られる可能性があるため、可能な範囲でチェック。

 ひとまずどこにも異常は感じられなかった。逆に、それが美緒の混乱を生む。


(どこもまだ痛くないのに、どうして?)


 不安を隠したままではラリーにも影響が出ると、美緒は一度考えることを止める。試合を続けていく中で見えるかもしれない。そう心の中で言い聞かせてサーブを放った。

 ロングサーブで奥に運ばれるシャトル。サービスラインぎりぎりでも岡田は迷うことなく打ってくる。美緒がライン上を狙う技術を疑いもしない。対戦相手の力を、信じている。


(だからフェイントにもなりはしないんだけど……ね!)


 ドリブンクリアで返ってきたシャトルをスマッシュで叩き込む。しかし、岡田は落下点にすでに辿り着いていた。カウンター気味にロブを上げられて、美緒は急いで体をシャトルの落下点へと向かわせる。その間も、自分の体が自分のものではないような違和感を抱えていた。


(追いつけない訳じゃない。打ててないわけじゃない。でも、何かが足りない!)


 スマッシュを避けてハイクリアを打つ。しかし、そこにも岡田はすでに移動していて、ゆっくりと構えた後でスマッシュを放った。


「やあ!」


 ストレートに飛んできたシャトル。速度もある程度あったが、美緒は前に詰めてクロスに返す。その瞬間、美緒は違和感の正体に気づいた。それを更に深める前に岡田のドライブがストレートにコートを切り裂いていく。美緒はバックハンドで前に落とし、ヘアピンを読んで前に飛ぶ。想定通りのヘアピンに無理せずロブを上げて、滞空時間で体勢を整えた。

 次に来たスマッシュをもう一度クロスで返す。同じように抱く違和感。二度続けば予想は一定以上の信憑性を帯びる。

 岡田は愚直にスマッシュとドライブを繰り返す。更にたまにくるドロップが他の切れ味を良くする。徐々に美緒は、自分の打つタイミングが遅れていくのを自覚する。


「――やあ!」


 力強く吼えて踏み込み、ラケットを打った直後に止める。ふわりとした軌道でネット前に落ちていったシャトルに、フェイントに引っかかった岡田は反応しきれずに追いつけなかった。


「ポイント。スリーシックス(3対6)」

「しゃ!」


 美緒がガッツポーズを岡田に見せつける。気合いを入れて自分を鼓舞し、相手を萎えさせる。無論、岡田がそれだけで挫けるような精神力しかないとは思えない。ベスト8で対戦した千坂よりも上。もしかしたら自分よりも上かもしれない。

 ただ、美緒にとって幸運だったのは、以前と比べて別人と思えるくらい強くなっていたとしても、あくまで対戦経験がある相手だということ。

 その分、自身の変化に気づくことができた。相手が実力を伸ばしたこと以外に原因があるならば、それは自分自身のみの問題だ。


(私は、怖がってる。萎縮してるんだ。それで、タイミングが遅れてる)


 いつもよりも半歩分。自分の踏み込みが遅いことに美緒は気づいた。

 きっかけはクロスへ打ち返した時。打ち込まれたシャトルをストレートに返すよりも、カウンターを狙って通常の位置より前で斜めに返す時のほうが、前に出るタイミングなどのずれは分かりやすい。遅れるとその分、角度が浅くなるからだ。

 美緒は自分のクロスドライブの軌道を見て、いつも見ていた軌道よりも浅くなっていることに気づき、二度目でほぼ確信したのだ。

 理由が分かれば対処できるかと言えばそうではない。美緒は試合を止めない程度にシャトルを受け取り、羽を整えつつ打開策を探す。


(なんでそんなに萎縮してるの? これで勝ったら、全国が決まるから? 負けたら、私の挑戦が終わるのが怖いの?)


 ふと目の前を見ると、小学校六年の時の自分が背を向けて立っている。浅葉中のユニフォームではなく、個人で所有しているもの。手にはシャトルとラケット。後ろから見て分かるくらい、小さくなって背中が固まっている。

 そしてその両隣には、同じく背を向けた同い年の男女。美緒の立ち位置よりも少しだけ下がって、美緒をじっと見ている。


(……ふざけないで)


 自分が何を恐れているのか。それが突きつけられる。

 自分はそんなに弱い人間だったか。

 約束に怯えて逃げ出したくなるような人間だったか。

 怖がるような人間だったか。


「はぁああ……すぅ……」


 深呼吸を何度か繰り返す。体中に血液、酸素を送り出すように。更にそこに、自分の気合いを流し込む。

 弱い心に負けないように。


「一本!」


 目の前に映る幻影。それらを吹き飛ばすように叫び、美緒はシャトルを高く遠くへと飛ばした。ガットの中心にシャトルコックが当たった時の感触。会心の当たりへの確信は後回しにすぐに腰を落とす。

 シャトルは急角度で岡田へと落ちていく。照準を合わせずらそうにしつつも、岡田はしっかりとシャトルを捉え、スマッシュを放った。だが、次の瞬間、美緒は斜め前に飛び出してラケットを伸ばしていた。


「はっ!」


 シャトルがラケットへと吸い込まれるように。

 美緒はネットから少し過ぎたところでシャトルを捉えてヘアピンを返していた。勢いを殺されて落ちるシャトルを岡田は打った姿勢から前に出ようとしたところで止まって見ていた。


「ポイント。フォーシックス(4対6)」

「しゃ!」


 ラケットを掲げて得点を強調する。体は自然と動いていた。男子のような動きだと仲間に言われたり、自分でも思っている。それでも、一番自然だと思える動き。


(夢が叶いそうになってるから、叶わなかった時が怖い。そんなのに……負ける私じゃない。舐めるな!)


 すぐにうっすらと現れる過去の自分を気合いでかき消す。頭に浮かんでくる弱気を精神力でねじ伏せて、美緒は更にシャトルを飛ばしていく。遅れていた体は徐々に本来の動きを取り戻し、岡田はその変化についていけないのか、あっという間に逆転して、更に点差を広げる。美緒のスマッシュやドロップを交えた早い展開に最初はついていけた岡田も徐々に遅れていき、最後にはネット前に落とすことで得点する。

 一回のラリーは相変わらず長かったが、序盤よりも短くなっていく。

 そして――。


「はっ!」


 美緒のスマッシュが岡田の胴体に当たり、落ちていったところで審判が得点を告げた。


「ポイント。イレブンシックス(11対6)。チェンジエンド」


 軽く頭を下げて謝り、美緒はコートの外に一度出た。二点から怒濤の九連続得点。序盤に取られた点数だけ苦しんだが、ギアを変えた美緒の前には岡田も沈黙している。

 周りから見れば、下馬評通り。多少苦戦はしても美緒の勝利は動かない。

 そう見えているだろうと内心で思いつつ、美緒はそれを否定する。ギアを上げたといっても、本来ならば上げてはいけないところまで上がっている。そうしなければ岡田を振りきれない。何よりも、自分の内から浮かんでくる「弱さ」をねじ伏せようと精神力も消費している。このままでは最後まで持つか持たないか、というところだろう。それでも、ペースを落とせるかどうか美緒には分からなかった。ここまで自分の心が思い通りにいかないのおは初めてのこと。約束の成就が、逆に自分を縛っている。


(何とか。どこかでクールダウンしないと……でも、そこまで甘い相手でもないか)


 周りから優位に見えている、と考えたが、やはり一部の実力者には見透かされているだろう。美緒にはあまり余裕はなく、一つ糸が切れたら一気に崩壊するかもしれないリスクが。そしてそれは、対戦している岡田が最も分かっている。連続で点を取られても焦っている様子は見えない。虎視眈々とチャンスを狙っているようだ。


(それでも、このまま行くしかない)


 タオルで顔を軽く吹き、ラケットバッグと一緒に持ってエンドを移動する。審判の後ろを通って、岡田とも交差。そこでぽつりと岡田が呟く。


「いつまで持つ?」


 唐突に言われた言葉に背筋が泡立つが、顔や行動に出ないように押さえ込む。余計に精神力を浪費したが、岡田には何も影響がないように見えたはずだった。


(あんな性格だったのかな……それとも演じてるだけ?)


 嘘か本当か。それを考えても意味はないとすぐに頭の中から捨てる。

 すべて、美緒に勝つために岡田が仕掛けてきているのだから。そうでなければわざわざすれ違い様に呟いてくるわけはない。


(岡田も必死なんだ。私も、必死になるしかない)


 目の前の相手。心の中の相手。

 どちらも逃げられない。立ち向かうしかない。


(どっちにも勝って、私は――)


 シャトルを持って構える。岡田がレシーブする体勢を取ったのを確認して、美緒は高らかに叫ぶ。


「一本!」


 高く遠くに飛ばされたシャトル。その下に回り込む岡田。その動きを完全に視界に収めて、美緒は次の動きを予測する。


(私は、勝つ!)


 岡田がスマッシュをストレートに打つのと、美緒がその軌道上にラケットを置くのはほぼ、同時。打ち終えて前に出ようとした岡田が美緒の姿を見て驚愕に顔を歪ませる。

 美緒はラケットに吸い込まれるように来るシャトルを、完全に勢いを殺して弾き返した。


「ポイント。トゥエルブシックス(12対6)」


 美緒は声を上げずに、左手を脇へと勢い良く引き寄せてガッツポーズを見せる。気合い十分の姿に、岡田も表情が引き締まった。


(このまま、押し切る)


 インターミドル女子シングルス準決勝。

 ファイナルゲーム。

 12対6で朝比奈美緒、リード。

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